Taiwan Tips(遙かなり台湾編)

51. 高校野球(嘉義農林)

今年も甲子園に全国から戦いを勝ち抜いてき野球児が集まり、連日熱闘を繰り広げていて、テレビの前に釘つけになっている人も多いかと思います。ぼくにとって高校野球史の中で30年を過ぎた今もなお鮮明に覚えている試合があります。それは今から34年前の昭和44年夏の三沢高校と松山商業との決勝戦です。この決勝戦は何と延長18回までスコアボードに00000000----が並ぶ4時間余に渡る大激戦となり、決着がつかず結局、翌日再試合となったのです。翌日の再試合は序盤から点の取り合いとなり、2−4で継投策をとった松山商が優勝したのです。しかし、半官びいきの多くの人々は二日間の決勝戦を一人で投げ抜いた太田投手ら三沢高選手たちがマウンドの土を集めている姿に、球場内の大観衆だけでなく、テレビで観戦していた人々も、手の痛みを忘れるほど惜しみない拍手を送ったものでした。

戦前、三沢高校と同じように決勝戦まで進んだ台湾から出場したチームがあったのをご存知でしょうか。その名は「嘉義農林」。高校野球ファンでなくても台湾人の年配の方で知らないものがいないほど有名なのです。読者の中には、「どうして台湾のチームが甲子園に出場できるの?」と不思議に思われた方がいるかも知れませんね。それは、台灣が日本の植民地時代、台灣の学校も日本の学校とみなされていたため、台灣の高校からも甲子園へ出場する事ができたのです。昭和6年(1931)の台灣代表として出場した嘉義農林高の監督は前述の松山商出身の近藤兵太郎で「俺が台灣の野球を強くする」という意気込みで台灣へ渡った人でした。彼は台湾最強のチームを作るべく台湾全島をくまなく歩き回り有望な選手を見つけ、嘉義農林へと呼び寄せたのです。松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え、それに応えた嘉義農林の選手たちは徐々に頭角を現わし、1931年甲子園の切符を手にしたのです。下馬評にものぼらなかった嘉義農林は破竹の勢いで勝ち進み、見事に準優勝し、日本全国をあっと驚かせ、甲子園の輝かしい歴史の中にその名を刻み込んだのでした。
http://gsh.taiwanschoolnet.org/1970/chinese/ball01.htm
※嘉義農林高は後年、国立嘉義技術學院となり最近、国立嘉義師範學院と統合し現在は国立嘉義大学となっています。

◆インターネットで検索していると下記のような新聞記事が載っていました。今は年老いたOBの人たちが先生の墓参りにわざわざ松山に足を運んでくれて
いたとは、何と律儀な台湾の人たちでしょう。簡潔な記事の中に「当時の先生と生徒の信頼の絆の深さ」に感銘を受けました。

台湾の嘉義農林OBが監督の墓参り (1998/08/05  愛媛新聞掲載)
全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高野連主催)の前身、全国中等学校優勝野球大会の第十七大会(一九三一年)で台湾から出場して準優勝した嘉義農林(現・嘉義技術学院)のOBらが四日、松山市を訪れ、当時の野球部監督だった故近藤兵太郎さんの墓参りをした。近藤監督は元松山商野球部員。戦前に台湾に渡り、嘉義農林の野球部監督に就任。甲子園に初出場し、準優勝に導いた。この日、近藤監督のもとで野球をしていた嘉義農林野球部の選手やOBと日本在住のOBら約二十人が再会を喜び合い、故人の思い出に話を弾ませた。近藤監督の母校の松山商を表敬訪問したあと、墓参りに出かけた。戦中・戦後の混乱で紛失していた準優勝の記念盾「朝日牌(はい)」をこの夏に復刻した。参拝者は持参した盾を墓前に添え、墓石に水や酒をかけて手を合わせた。準優勝当時に中堅手だった蘇正生さん(八五)は、墓前で思わず目を潤ませ「近藤さんは台湾の模範となる野球を教えてくれた。今の自分があるのはすべて近藤さんのおかげ。本当に感謝している」と話した。


50. だから台湾が大好き&彰化花火

東京に住んでいる方が、投稿の呼びかけに応じ、下記のような原稿を寄せてくださいましたので、皆さんにご紹介します。
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いつも楽しくメールマガジンを読んでおります。昨日の募集を見て、何となく書いてみようかな…と、さっそく原稿を作成してしまいました。以下のとおり送らせていただきます。(みわ)

私が初めて台湾を訪れたのは3年前、留学先で知り合った友人に会いに行ったのがきっかけです。すぐに心地よい懐かしさを感じ、マグネットに引きつけられるように、台湾が大好きになりました。それは、きっと現地で偶然出会った人々の温かさに触れたからだと思います。昨年暮れに再び訪台し、前半は台北、後半は友人が住む台中に滞在しました。彼の仕事があった日は、ひとりで気の向くままに台中の街を散策しました。台中で、木造建築が美しい茶芸館に立ち寄った時のことです。私は芳しい香りの台湾茶でくつろぎながら、次は国立自然科学博物館へ行くことにしました。2度目とはいえ、土地感は薄く、茶芸館で行き方を尋ねました。女性スタッフに中国語と片言の日本語で教えてもらいながら、近くに博物館方面へ行くバス停があることはわかったのですが、具体的な位置までは理解できませんでした。すると、彼女は私をバス停まで連れて行ってくれたのです。恐縮しつつお礼を言って別れてから5〜6分後、視界に再び彼女の姿を見つけました。その日は月曜日で、ちょうど休館日だということを伝えに来てくれたのです。街路の喧騒とはまるで対照的に、彼女はとても静かに、ゆっくりと歩いてきて、優しくそう教えてくれました。そして、同じ調子でお店へ戻っていく後ろ姿を見ながら、嬉しくて、安らかな気持ちになったことを覚えています。

台湾では、そんな優しい出会いが他にもいくつかありました。歩道で地図を見ていたら、いきなりバイクを停めて、「少し日本語がわかります。どこへ行きたいのですか?」と道を教えてくれた婦人…。懐かしそうに日本語で話しかけてきた老夫婦…。駅で、何気に私が切符を買えたかどうか見届けてから去って行った女性たち…等々。即座に私が日本人だと判かってしまうのは不思議でなりませんが、台湾人のおおらかなホスピタリティに引き寄せられて、また台湾へ戻りたいと思ってしまうのです。
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さて、日本は全国的にやっと梅雨明けし、本格的な夏がやって来たんじゃないかと思います。夏の風物詩と言えば、やっぱり花火ですよね。ウチワを片手にゆかた着で見る花火大会はまさに「日本の夏」ですよね。今ごろは日本各地で花火大会が行われているんじゃないでしょうか。ここ台湾では花火よりも爆竹がよく見られます。正月だけでなく店開きなど祝い事の際も景気づけによく爆竹が鳴らされるのです。でも、戦前は花火大会があったんですよ。その様子が吉田先生の画集に描かれてありました。ではさっそく見てみましょう。

●台湾で生まれ育った湾生の思い出(17)
「彰化花火」(絵と文:吉田道夫)
絵は下記のアドレスをクリックすればご覧いただけます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/mailmag/magph03.html
 
彰化には古くから花火会社があった。ここでは、正月祭礼や慶事のとき等に鳴らす爆竹を作っていたが、特に有名なのが彰化花火と称する仕掛花火で、その名は各地に鳴り響いていた。昭和6年夏梨本宮様御台臨の折りには、台中州庁庁舎前でこの仕掛花火を披露しお目にかけた記憶がある。花火大会の前日から公園テニスコートのある広場に高い櫓(やぐら)が立ち、花火の仕掛けが始まる。当日夕刻日暮とともに町内はもちろん、隣の台中、員林方面からも多くの人が観覧に訪れる。最初点火すると仕掛け順に火が流れてゆき見事な頻芸術火の芸術が展開されしばし観客の目を和(なご)ませてくれる。いろいろ方向を変えて回る風車がすむと赤緑黄青その他いろいろの彩色の火玉が四方八方に飛散し、次々と変化しながら櫓の位置を移動してゆく。最後に豪華な火の滝、夏の夜のひととき一服の清涼剤であった。ここの花火会社、昭和8年頃会社名を変えて「彰化爆竹煙火株式会社」となり、父が新しい檜材に太筆で看板を書いた。この会社、今でも健在なのだろうか?


49. 玉蘭荘

さて、先日広島県にお住まいの伊藤さんという方がメルマガ44号(歴史教科書)を読んだ感想を下記のようにメールで寄せてくれました。

メルマガで紹介されたおばあさんの話中「・・悲しい事に日本語しか・・」と「・・・台湾を見捨てるのですか。」など。これは、誰にもわからない、本人にしかない大変な事実です。KISOU3さんは、いい人に出会いましたね。これこそ、大切にしなければならない本当に台湾を考え,真剣に日本のことを心配なさってくださる方ではないでしょうか。お話されたおばあさんは1930年初期以前にお生まれになった方でしょうか。(中略) そのおばあさんは母国語ができないので,なにか損害を蒙っていらっしゃるのでしょうか。湾内には、そういう方々を考える団体みたいなものは無いのでしょうか。大変な過去の残した、手の届かなかった事実ですね。

伊藤さんにメールをいただいて返事をしなければと思い、今日までのびのびになってしまいましたので、ここで返信を兼ねて、そのおばあさんが参加している「玉蘭荘」を皆さんに紹介します。(注:内容は以前玉蘭荘を訪れた際のパンフレットを参考にしています。)玉蘭荘は日本人宣教師堀田久子氏により、日本語での活動を通して高齢者の心身を支えるディケアセンターを目指して今から14年前(1989年)に設立されました。近年、台湾も日本同様高齢化社会への道を一途にたどっていると言って過言ではありません。でも、台湾においての高齢化社会を考える時、まず、複雑な過去の歴史を避けて考えることはできません。玉蘭荘に通ってくる人たちはその背景により次の3つのタイプに大別することが出来るそうです。

1 過去50年に及ぶ日本統治時代(1895〜1945)に日本語を使って生活してきた人々。日本教育によって文化や習慣までも身につけさせられた人たち。終戦後、既に日本教育により、自己形成がなされていた人々は、戦後は中国教育を強いられるという境遇におかれました。又、この中には台湾生まれの日本人も含まれます。
2 日本統治時代に台湾の男性と結婚した日本人女性で終戦後台湾にて夫と共に暮らし、子供を育て上げた後、夫に先立たれた人たち。
3 戦前日本より中国大陸に渡り、終戦後現地で中国人と結婚し、夫と共に台湾に移り住んだ日本人妻の人たち。

歴史を顧みて、これらの人々が自分の気持ちを最も適切な表現ができる言語は日本語なのです。しかし、終戦後の国民党政権による戒厳令が解かれる15年余り前までは日本語の使用は禁止され、日本文化からも遠ざけられてきたのです。中には不安定な国情を案じ、愛する子供を守るつもりで安定した国に留学させた結果、子供たちは外国に定住し、台湾に残ったのは年老いて孤独な親のみと言った例も少なくないのです。苦しい時代をいくつもくぐり抜け高齢期を迎えた人々にとって、なつかしい日本語での集いや若かりし頃歌った日本の歌の数々を大声で自由に歌える喜びはきっと何物にも代えがたいものだと思います。また、それらは高齢者の心を支え、心身ともにケアする役割をも果たしているのです。私たちはこの社会を構成する一員として、まずこれらのことをよく認識し、台湾の高齢者問題を考えなければならないと思います。台湾の置かれた歴史的特殊事情を理解し、特にこの世代の高齢者の活動を支援し、ケアして行く“癒しの場”、それが「玉蘭荘」なのです。「玉蘭荘」についてもっと詳しいことを知りたい方は、下記をクリックしてアクセスしてみてください。
玉蘭荘のホームページ:    
http://gyokulansou.disciple.com.tw
Eメール:ylcs@ms51.hinet.net


48. 日本と台湾に見る双方の社会現象

先月末SARSの渦中にある台湾にやってきたサラリーマン氏が下記のようなタイトルのエッセイを寄せてくださいました。日本と台湾の習慣、文化、国民
性などの違いが述べられていて、おもしろいですよ。では、「日本と台湾の昨今の社会現象」を、ゆっくりご覧下さい。

サラリーマン氏の見た台日双方の社会現象

[ケータイ文化]
若者の日本語では携帯電話のことをケータイと呼び、いつの間にかどの世代の日本人もこの言葉を使うようになりました。ケータイは最早世代を問わず多くの国民の必須アイテムになっているのは日台で共通した社会現象と言えそうですが、その発展の仕方、方向が違って来ているように見えました。日本は以前よりは安くなったとはいえケータイの通話料金はまだまだ高いです。大人もそうですが特に親の臑を囓っている中高生達は通話時間が長くかかる会話よりも同じ内容で通信時間が短くて済むEメールの送受信にケータイを利用することが多くなっています。都会であるか田舎であるかを問わず電車・バスの中や街中でもケータイのメールを読んだり打ったりしているシーンは通常の光景になっています。ケータイでメールをやりとりすることが、若者達が楽しいと感じることの中で大きなウエイトを占めているようです。今では機械音痴の私の妻さえケータイでメールを打っています。片側の手の親指だけでメールを打つので親指族という新しい言葉もできました。メール機能が付くようになってから公共の乗り物内で、ケータイで会話するシーンは以前よりは減りました。更に次第にデジカメ付きのケータイが標準になって来始めました。このためモニター画面はある程度の面積が必要でケータイの小サイズ化は図られているものの台湾人から見れば大きいと感じるでしょう。日本の公共の乗り物では必ず車内でのケータイでの会話を控えるか、デッキに行って会話するように車内放送します。勿論従わない輩はいますが。

台湾ではケータイは専ら電話機の携帯機能だけを追求しているようで私が台湾に行く度に小型化されていると感じます。日本のケータイと比べるとかなり小さいと感じます。日本のように黙々とケータイでメールを打ったり読んだりしているシーンはほとんど見かけません。捷運の車内には心臓にペースメーカーを埋め込んでいる人を守るために電源オフのゾーンがあるものの、車内でのケータイによる通話をえ控えるよう要請する表示も車内放送もありません。乗り物の中でもあちこちでケータイで会話しているシーンに遭遇します。

日本ではデジカメ付きのケータイが普及してきたことにより本屋さんで本を買わずに中味を写し取る「デジタル万引き」や女性の下着を隠し撮りするような悪用も起きています。日本の新しいケータイには時計、インターネット、デジカメ・ムービー、音楽のダウンロードの機能が付いていますので腕時計、パソコン、カメラ・フィルム、デジカメ・ビデオカメラ、ウォークマン等がその分売れなくなって来だしています。今後も色んな機能がケータイに集約化され従来独立していた個々の産業が脅かされて来ると予想されます。

[女性のヘアカラー]
台湾の女性も黒髪よりも西洋人風の髪の色を好む人が増えて来ています。今回の旅で注意して見ましたが社会人になっている若い女性から中年の女性は栗毛、赤毛に染めている方が多くなっていました。5年前くらいまでは女性の髪の色を見るだけで日本人か台湾人の区別ができましたが今では少なくなった黒髪のままの女性しかすぐには区別がつきません。いずれは日本のように女子高生や若い男も髪を染めるようになるのか、学校の規律がまだ日本より厳しく、
また徴兵がある台湾ではそうはならないのか個人的には興味のあるところです。

[エスカレータ]
台北駅や捷運各駅のエスカレータでは歩いて上がる人が多くなりました。日本の関東地方では慣習的に歩かない者は左側に立ち右側を歩いて上がる者のために空けますが、台北では歩かない者は右側に立てと明示してあります。台北では数年前まではこのルールに気付かず左側に立っているシーンも少なくありませんでしたが今回の旅ではいつもルールが守られていました。日本も台湾も時間に追いまくられる生活が多くなってエスカレータでも歩いて上がる者が増えているのでしょう。

[男の持ち物、身なり]
日本人男性、特に中年以上の男性は上着無しで街に出る時は大抵セカンドバッグなるものを携帯します。旅行となると男の必須アイテムと言えます。ポケットが足りないので貴重品、タバコ・ライター、ポケットティッシュペーパー、ガム、櫛、筆記具その他の小物入れです。どうやらこの習慣は台湾男性には合わないらしく、私は外見で日本人か台湾人かを見分ける場合にセカンドバッグの有無を基準にしています。また日本の若者は10年くらい前から上着無しの格好ではシャツの裾をズボンの中に入れなくなり、中年以上の世代もその影響を受け始めています。私も上着無しの時は大抵シャツの裾をズボンの外に出しています。この格好も中年以上の日本人と台湾人を見分ける基準にしています。

正式な名前を知りませんが少なからぬ台湾の男性がズボンのベルトを通す帯状の布に何種類かの鍵やケータイを収納するケースを吊り下げています。最初見た時には珍しいファッションだなと少し驚いたものです。日本人には鍵をズボンに吊り下げる習慣はないのでこれも日本人と台湾人を見分ける基準になります

[ジベタリアン]
最近の日本の若者は暫くの間も立っていることができず地べたに尻をつけて座り込むためこのような軽蔑の気持ちを込めた言葉ができました。駅、公園、コンビニの前だけでなく街中や電車の床でも見かけます。スカートの女の子などは本人が気付かぬうちにパンチラを見られています。まだ多くはありませんが台湾の捷運の乗り換えに通るスペースや駅前でも若者のジベタリアンを見かけるようになりました。栄養バランスが崩れているのか睡眠不足なのか知りませんが台湾の若者も次第に体力が落ち始めているのではないかと危惧しています。

[慎重な日本人、行動的な台湾人]
今回のSARSのようなできごとがあると国民性の違いが顕著になるようです。WHOは6月17日に台湾への渡航延期勧告を解除しましたが私が乗った行きの24日と帰りの28日の飛行機には日本人客は全体の2割程度しか乗っておりませんでした。私が利用した旅行社のツアー客は従来は少ない時でも5,6名はいるのに今回は私一人でした。日本の旅行社がSARSで利用客が減っているといっても料金を大して安くしないこともあるのかも知れませんが、少々安くしても勧告が解除されてからまだ一週間程度では慎重な大多数の日本人は世界中から不特定多数が出入りする空港に行くのさえ憚るのが普通です。私などは軽率な部類に入るのかも知れません。多分次に大勢が旅行する7月下旬の夏休みやお盆休みになっても海外旅行は台湾以外の国へも控えるのではないかと思われます。

一方台湾人は6月24日は空席があったとはいえ乗客の8割を占めていましたし、26日から公共の乗り物でのマスク着用が不要になり、学校も夏休みに入り、料金は安くなっている28日の飛行機は子供連れの台湾人ツアー客で満席になりました。実質安全でしかも料金は得となればチャンスを見逃す手はないという考え方のように見受けられます。


47. 興行物の見学

興行物と言えば、台湾に住んでいてよく見かけるのは、ビルやマンションの起工式の際によく上演される仮設舞台での歌謡(ダンス)ショーや、公園や廟など行われる人形芝居などでしょうか。戦前の台湾社会ではどんな興行物が見られたのでしょうか。そのあたりを吉田先生の画集を通して見てみましょう。

興行物の見学 (絵と文:吉田道夫)
絵は下記のアドレスをクリックすればご覧いただけます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/mailmag/magph03.html

彰化小在学中(昭和5〜8)の3年間にいろいろの興行物の見学をした。映画を始め大相撲、サーカス、芝居、奇術、展覧会展示会等学校からの引率で見学に行った。中でも矢野サーカス、天勝等は有名でだった。料金等についてはあまり記憶がないが、たいてい会期末の特別料金(終末が近づくと番組の数を減らして割引料金にする)のときで15銭〜20銭ぐらいのものだったろう。大きなテント小屋の中には何千と言う観客が所狭しと詰めかけて大入り満員というところ。当時新番組の空中ブランコ等、多くの動物を使っているのも大きな魅力であった。天勝奇術も当時の興行界では有名なものの一つであった。天勝に対抗して天華も大きな興行として地方巡業を行った。これは、後日台中で見たように記憶している。これらの他に学校まわりの小さな興行師もいた。浪曲師、筑前、琵琶、気合術、アイヌの歌と踊り、童話の先生等多種多彩であった。今もって疑問に思うことは、学校まわりの組に、どれぐらいの金を支払っていたのか? 私達児童は料金を出した記憶が一度もない。(彰化の思い出第2集より)

絵を見て驚きました。というのは、森永やグリコなどの会社が戦前からあることは知っていましたが、小さい頃飲んだ三ツ矢サイダーがこの絵に描かれて懐かしさがこみ上げてきました。あの当時から既にあったんですねえ。

初の「大相撲台湾場所」、来年実現へ!今年2月ある夕刊にこんな見出しが載ったのをご存知でしょうか。今月6日から始まった大相撲名古屋場所。残念なことに横綱武蔵丸は途中休場してしまいましたが、台中会の会員の中には大相撲ファンがいて、日本人のぼくよりも相撲通なのです。昨年はプロ野球の公式戦が台北で行われましたが、日本統治時代に教育を受けた60歳以上の日本語世代の 多くが衛星放送でNHKの大相撲放送を楽しんでいるのです。もし、台湾公演が実現したらきっと大きな評判を呼ぶことでしょう。


46. 台湾の果物(茘枝:レイシ)

台湾では、SARS感染防止のために5月中旬以降電車や台北捷運(MRT)の乗客、タクシーやバスの運転手を対象に実施していたマスク着用処置が、感染の沈静化に伴い、今月26日に解除されました。イラク戦争終結と前後して2ヶ月余りSARSの脅威にさらされましたが、そのSARS騒動も収束に向かい、もうすぐ感染地域からの解除宣言が出されるものと思います。

今月6月は、台湾では卒業シーズンで、この時期になると、鳳凰樹(フェニックス)の花が咲き乱れます。日本のサクラが入学式を連想させるように、鳳凰樹の赤い花は卒業の代名詞になっているのです。そして、今月(旧暦5月)は、セミの声のさえずりとともにレイシの季節なんです。いつも週末になると、市の郊外にある山へハイキングに出かけることが多いのですが、その登山道の入り口付近にはレイシの木がたくさんあります。今の時期は木の枝には緑色から赤褐色に熟したレイシの実が枝も折れんばかりにぶらさがっているのです。

茘枝 [Lizhi]
中国の華南原産でムクロジ科の常緑高木。葉は大きな羽状複葉。枝先に花弁のない小花を綴る。果実は卵形でリュウガン(龍眼)に似るがやや大きい。外面に亀甲紋があり、赤く熟す。果実は多汁で香気があり美味。レイシ、ライチとも言う。 (広辞苑より)

数年前に、彰化に住んでいる友人がレイシ狩りに誘ってくれました。そのときの採りたてのレイシのおいしさと言ったら、今なお忘れることができません。上質のレイシは丸くてはちきれそうで、外側の皮は鮮やかな赤で、むくのは簡単です。中は白くて透き通って輝き、口の中にほおばると、甘みが口全体に広がり、種は小さく果肉が厚いのです。友人はレイシを採る時は老木を選ぶように教えてくれました。老木になるほどおいしいのだそうです。またこんな話も聞きました。あまりのおいしさにたくさん食べ過ぎると胸焼けを覚えたり、鼻血が出たりするそうですよ。でもそんな時はレイシの皮だけで水で煮て飲めば大丈夫だって。不思議ですよね。レイシの果肉は胸焼けを起こし、その皮はそれを治してくれるなんて。幸か不幸か、ぼくは鼻血が出るほど一度にたくさん食べ過ぎたことはないので、この話の真偽は定かでありませんが、どなたか体験した方おりませんか?

皆さんはあの有名な楊貴妃の大好物な果物がレイシだったことを知っていましたか。彼女はレイシを食べ過ぎて、頭がのぼせたことはなかったのでしょうか?「一晩井戸水で冷やしたレイシは最高の味だわよ。たくさん食べてものぼせないんだから。」とレイシ売りのおばあちゃんは話していましたが、かの楊貴妃もそうやって食べていたのでしょうか? (注)日本に住んでいる皆さんの中には茘枝を「ライチ」の名前で馴染んでいる人も多いと思いますが、我が家ではいつも「レイシ」と呼んでいるのでここでは習慣にしたがってレイシとして紹介したことをご了承ください。


45. よずものなおーす氏

皆さん、台北に世界一のノッポビルができるのを知っていますか?今月1日に通称「台北101」と呼ばれる超高層ビルの上棟式がありました。日本の建設会社も参加して98年から工事が始まり、完成(予定は来年夏以降)すると、101楷建て、高さは508メートルで、世界一高いビル誕生! まるで池袋サンシャインビルは子供?だって。じゃあ、「台湾で世界一」と自慢できるものは他に何かあったけ?
 
国際線が松山空港だった頃、台湾の人たちは上空から圓山ホテルが見えると「ああ、台湾に帰って来たんだ。」と思ったそうです。でも、今後は、世界一の新しいノッポビルが台湾のシンボルになり、日本人が飛行機の窓から富士山を見ると同じような感慨をもつことでしょうね。きっと。また、既にニュースでご存知だと思いますが、台湾は晴れて先週の土曜日(5日)「新型肺炎(SARS)感染地域」から指定解除されましたよ。新型肺炎は昨年11月に中国広東省で始まった流行が八カ月ぶりに終息することになったわけです。皆さんの中には台湾旅行をためらっていた人も多かったと思いますが、今度は是非安心して遊びに来て下さいね。

台湾では電車やバスに乗るときはマスク着用が義務づけられていましたが、今回の解除を受けてもうすぐ着用義務もなくなることでしょう。バスといえば、市内を走っているバスに乗ったことがありますか。ぼくは初めて台湾のバスに乗った時、日本とあまりにも違うのでビックリしたことがあります。それでは、その時の体験談を「台湾見聞録」から抜粋して紹介しましょう。

台北に行った時、久し振りに友人に会おうと思って彼に電話をかけたたのです。すると、かれの返事は「そこのホテルの前から20番のバスに乗って15分位したら、大きな教会があるから、そこで降りて待っていて。迎えに行くから。」と言う答えだったのです。バスの料金は冷房車は当時8元(日本円約40円)で日本に比べたらただみたいな安さ。細かいお金を持ち合わせてなかったので100元札を料金箱に入れたのです。釣り銭をもらおうと、運転手さんに手を差し伸ばすと、かれは知らん顔。

アタマに来て日本語で「早く、釣り銭のお金くれよ。」と怒鳴ったのです。するとかれはたどたどしい日本語でこう答えたのです。「お客さん、日本人?台湾のバス、釣り銭がない。バスに乗る時、必ず小さいお金いるあるよ。」「何がいるあるだ。このドロボーバスめが。」と思っても、安いバスのはずが無知のために高くついてしまったのです。そしてその後もイライラが続いたのです。自分の降りる所がわからので出発して10分過ぎてからは、バスが止まるたびに目標の十字架が見えるかどうかばかり気になってのんびりと異国の風情を観察する余裕などありません。「困ったなあ、全然教会なんてないぞ。」と思っているうちに、バスはどんどん停留所を通過して行くのです。

バスは乗客が下車の合図をしなかったり、停留所に客の姿が見えない時は止まらないのは当然ですが、台湾ではバス停のアナウンスがないのです。バスに乗ってもう20分経過。「もし右も左も分らない所で迷子みたいになったらどうしよう。」なんて思っていると、前方に友達の姿が見えたのです。「ああ、よかったあ。助かったあ。」と、言葉を発しようとすると目の前に教会があったのです。そして教会の時計の針を見て「あっ、もう10時か。」と叫んだのでした。


44. よずものなおーす氏

ぼくが田舎で小さい頃、冬になるとよく納豆売りのおばさんが「納豆はいかがですか。」と言いながら、各家庭を回りながら売りに来たのを30年過ぎた今も覚えています。台湾でもよく「バーツァン、バーツァン、シォバーツァン」とスピ―カーで流しながら回っているちまき売りの行商人がいましたが、最近はあまり聞こえなくなってきました。日本では、今もちり紙交換のクルマが来るのでしょうか。東京でアパート住まいしている頃よく「毎度お騒がしております。--------御用の方は-------。」とのスピーカーの声を聞いていましたが。だんだん行商人の姿を目にすることがなくなってきましたが、今回は戦前の台湾社会にタイムスリップしてその一端を見てみましょう。

●台湾で生まれ育った湾生の思い出(15) 
「よろずものなおーす氏」(絵と文:吉田道夫)
注:絵は下記の台中会のHPにアクセスし、メルマガの画面から上の画像3をクリックすればご覧になれます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/
ガチャ、――、ガチャ、――「なーべーかまなおーす。こーもりかさなおーす。」「くーつなおーす。」夕刻が近づくと、鉄板をくさりつけた鳴りものを鳴りながら、やって来る…..なおーすのおっさん。年の頃はとってに四十を越したと思われる浅黒く日焼けした顔のこの男(実際はもっと若かったのかも知れない)こーもり傘の修理をはじめ、鍋釜の修理(鋳掛け屋のしごと)から刄物研ぎ、又は皮靴の半張り等よろずもの修理承ります。という便利屋さんです。 「なーべーかまなおーす」はまあよいとして、特に「くーつなおーす」このアクセントに力が入りすぎて「―おーつなおーす」と呼ぶものだから、遠くから聞いていると「おーつなおーす」に聞こえる。父いわく「お前達、早く通信簿を持ってこい。これをあのおっさんとこへ持って行って、乙を甲に治して貰え」と。

◆先週、つい先頃読者になったばかりという中国江蘇省に住む方から前回の「認識台湾」の記事を転載させてほしい旨のメールが届きました。その人も「アジアの街角から」というメルマガの主宰者だったのです。もちろん断る理由などないので快諾しました。また彼のHPと台中会のHPが相互にリンクしあいました。先方のHPやメルマガは、中国やアジア各地に暮らす人々が綴る、役に立つ情報を硬柔混在で伝えているコンテンツが盛りだくさん。興味のある方は下記あてにアクセスしてみてください。
「アジアの街角から」 http://chinachips.fc2web.com/aaa.html


43. 台湾の歴史教科書「認識台湾」

皆さんは台湾の年配者にどうしてそんなに日本語の達者な人がいるのか、疑問に思ったことがありませんか。ぼくは、ある時、知り合ったばかりのおばあさんにその事を聞いてみたのです。でも答えを聞いて「あ〜あ。こんなこと聞かなければよかったなあ。」とあとで後悔したのです。どうしてかって? それは、こういう答えだったからです。「わたしたち戦前の人は悲しい事に日本語しか話せないのよ。」ああ、このような人たちがいるのを果たしてどれだけの日本人が知っているのでしょうか。そして、そのおばあさんに「日本はどうして台湾を見捨てのですか。」と聞かれ返答に窮したのです。彼女たちは国籍欄に日本と記載されていないだけで紛れもなく日本人なのです。もしあなたが彼女のような立場だったら今の日本をどう思うでしょうか?

●前回42号でもふれましたが、現在台湾では、中学生の歴史の授業に「認識台湾(歴史編)」と言う教科書が使われています。この教科書を見て感じる事は「日本統治時代」のことを客観的な尺度をもって評価しているのに驚かされる日本人が多いのではないでしょうか。「戦前の日本は軍国主義の下で韓国や台湾を武力侵略し植民地にした。現地の人を差別し、皇民化政策の一環として日本名に改姓させた。云々。」と教えられてきた戦後の日本人の一人として(この教科書は日本語版もでていますので、)是非取り寄せて台湾における日本統治時代を再認識してもらいたいと思っています。

1895年当時の清の国から台湾を割譲した日本政府は、台湾で現地の人と直接接触する機会の多い日本人(警官、教師など)のために台湾語大辞典を編纂、「台湾語」を勉強するよう奨励し、台湾人には日本語教育を施したのです。日本統治時代が終わる頃には、日本語のわかる人が75%までに達していたのです。それで、当時の台湾人にとって日本語は生活手段の言語だけなく、現代知識を吸収する言語となり台湾社会の文明化に大きな役割を果たしたのです。(認識台湾P72)では戦前の台湾の文明化をどのように進めたのかを知る手掛かりが上記の教科書の中に記述されていますので紹介してみましょう。まず、時の日本政府がやったことは、当時台湾社会の悪習(纏足、辮髪、アヘン)を徐々に禁止していったことです。それに伴い、次の3つの観念を徹底的に植え付けていったことにより従来と大きく社会が変遷したのです。

(1)時間の観念
総督府は週制度と標準時間制度を台湾に導入し、官庁、学校、工場なども就業と休息の規定を制定し、職員や工員、学生に規律を守るように厳しく要求したのです。たとえば勝手な遅刻早退を許さず、出勤、退勤時間を守らせ、汽車やバスの時刻表を定め乗客の便を図ったのです。1921年からは日本国内に合わせ、毎年6月10日を「時の記念日」と定め官庁や団体などを通じて講演会やパレード、或いは音楽会を行い、ポスターを貼り、ビラを配るなどして時間の重要性を宣伝し、時間に正確であり、時間を守り、時間を惜しむ精神の養成を期し、民衆に日常生活における時間の標準化と時間厳守の啓蒙に努めたのです。

(2)順法精神の確立
総督府は警察力を強化し、犯罪防止と治安維持を厳密に行い、民衆が射幸心で法律を犯さないようにしたのです。同時に学校や社会教育を通じて近代法治観念と知識を植付け、法律や秩序の重要性を学ばせ、それに加えて、司法は公正と正義を維持する事で民衆の信頼を獲得したのです。この影響で、民衆は秩序を重んじ、規律を守るなどの習慣を養い、遵法精神を確立したのです。

(3)衛生観念の確立(前回42号で紹介済み)
総督府は日本植民地統治の当初、水道を敷設して都市住民にきれいな飲料水を供給し、都市の地下排水工事を行い、各家庭の玄関にはゴミ箱を備えるよう定め、規定通りに廃棄物を処理させ、保甲組織を動員して定期的に地域環境の清掃活動を実地し、さらに予防注射、隔離消毒、ネズミ捕り、強制採血、そして薬の供給といった防疫事業を実施するなど、近代的な公衆衛生と医療制度の確立を積極的に行ったのです。これにより、ペスト、マラリア、コレラ、腸チフスなどの伝染病の退治に努め、かつ台湾人の公衆衛生と医療衛生に対する観念と習慣が改められたのです。

●このような観念、習慣を植え付けられことは、戦後台湾で支配階級だった外省人(戦後中国大陸からやってきた人たち)に対する台湾人の近代文明人としての最低限の証であり、密かな優越感をもたらすことものだったのです。この教科書は発行当初、主に外省人から「親日」「媚日」「植民地美化」といった罵声を浴びせられました。でも従来の教科書は、この時代について「日本の残暴統治50年」と言った一言で片付け、その実情についてはあたかも存在しなかったように何もとりあげてこなかったので、戦後生まれの多くはこの時代について全く知識がないのです。本書ではこれを初めて取り上げ、全体の4分の1と多くのページを割いています。しかも記述は公正にして的確で、どこかの国のように反日政策に基づく歴史の書き換えは見られないのが特徴です。(蔡易達氏) 

● 参考:台湾国民中学歴史教科書「台湾を知る」
  発行所 株式会社雄山閣 定価1500円(税抜き)


42. 端午節

台湾では明日は何の日かわかりますか。もちろん台湾に住んでいる人ならわかりますよね。そう端午節なのです。端午の節句は日本では5月5日なのですが、ここ台湾ではすべての民間行事は旧暦にもとづいているので、今年は6月4日が旧暦の5月5日にあたるのです。日本ではもう廃れつつある端午節は、台湾では人々の生活の中にどっこい根付いているのです。台湾に住んでいると、毎日夏のような暑さが続いて、いつから夏になったのかはっきりわかりません。でも、台湾人に言わせると本格的な夏の始まりは端午節を境に始るのだそうです。それでは今日は端午節にちなんだ話題を紹介しましょう。

●五月五日の端午の節句と言えば、以前はちまきを食べたものです。童謡「せいくらべ」の中に「ちまき食べ食べ……」と唄われていても、今では、もうちまきを食べる家庭は本当に少なくなってしまいました。でも、ここ台湾では端午節になると、どの家庭でもちまきを作って食べるのです。台湾のちまきは日本と違って、味付けしたもち米や豚肉、椎茸などを笹の葉に包んで蒸すのです。だから、日本のちまきよりも大きくてボリュームがあって、味もなかなかおいしいですよ。作った人の味が出ていて、これが「我が家のおふくろの味だ」と自己主張しているみたいなんです。

台湾のお土産と言えば、「紹興酒」や「ウーロン茶」、「カラスミ」などを思い浮かべる人が多いと思いますが、ぼくはこの台湾の「ちまき」をお薦めします。朝の市場やスーパーなどで一年中売られていますので、まず自分がひとつ買って、食べて見ておいしかった時はお土産にどうぞ。帰国してから、ちまきを食べながら台湾のみやげ話しに花が咲きますよ。ところで、どうして端午の節句にちまきを食べるようになったか知っていますか。戦国時代、楚の国に「屈原」という偉大な政治家がいました。愛国者でもあった彼は秦の国の侵略から守るため一生懸命努力しました。しかし、国王は彼の忠告を聞くどころか、逆に彼を追放してしまったのです。そして彼は国を憂るあまり五月五日にベキラというところで河に身を投げ自殺したのです。当時の人々は屈原の愛国精神に深い感動を覚え、小船に乗って遺体を探し求めましたが見付かりませんでした。それで、魚に食べられてしまうのは忍びないと、笹の葉にもち米を包んで川へ投げ入れたのです。こうしてこの日にちまきを食べる習慣が時代は変われど、今日まで伝わっているのです。

台湾の端午節は「鯉のぼり」こそありませんが、主要な伝統行事だけあって、盛大な行事があります。それは各地で行われるドラゴンボートレースです。台中の近くでは「鹿港」という所が有名です。長崎でも毎年行われるので見たことがあると言う人も多いと思いますが、へさきに竜の首を飾りつけた小舟(竜舟と言う)のボートレースなんです。端午節の当日、鹿港の町は親子連れや観光客で大変にぎわいます。竜舟に遠くからでも識別ができるように色とりどりの旗を立て、竜舟の先頭の人は太鼓をたたきながら味方の選手の士気を鼓舞し、選手は栄冠を目指し必死に漕ぐのです。台湾の端午節は旧暦の五月五日ですから、もう真夏の陽射し。レース中は見物客も選手も文字通り手に汗を握っています。もし見る機会があったら、帽子や日傘、水筒を忘れないで下さい。でも、一番いい方法を教えましょう。それは冷房のきいた部屋でちまきを食べながら、テレビでボートレースを観戦することです。暑さや人込みの嫌いな人、出不精な人には最適でしょう?またボートレースが終わったら、是非鹿港の町を歩いてみて下さい。ここは歴史の古い町ですから、中国式の伝統的な建物が見られ、中でも「台湾の紫禁城」と称されている龍山寺には必ず足を運んでおく所の一つですよ。そして、あの世で使うお金「紙銭」に興味のある人は、この町には「冥途の造幣局」もたくさんありますから、ついでに参観してみたらどうですか。何でも台湾で使われる紙銭の半数以上はここで供給されているのだそうです。それから歴史の好きな人は民俗文物館がありますから、お忘れなく。


41. 続SARSの話題

先日の台湾男性医師の件は4年前の地震に匹敵する日本中に衝撃を与えた大ニュースでなかったのではないでしょうか。あの報道後最近日本の友人から「SARSは大丈夫か?」と心配するメールが届いています。皆さんの中にも心配してくれる人がいるので、ここで「心配してくれてありがとう。こちらはお陰さまで大丈夫です。」と表明します。あの事件では幸いなことに第二次感染者は出なかったとの事を知ってホッとした一人です。でもホテル名を公表されたあの大阪のホテルの人はテレビで「何も悪いことをしてないのにどうしてうちがばっちりを受けなければならないのか。」とやりきれない思いで語っていたのが印象的でした。また一時帰国した日本人家族は「台湾から帰った」だけで周囲の人から白い目で見られ外出も出来ないと憤慨してメールをくれました。ここ台湾では、国内線や電車などに乗るときには、マスク着用が義務づけされ、違反者には罰金が課せられるようになりました。また日本政府から交流協会を通して台湾に住んでいる日本人に対し一人3枚のマスクが支給されました。台中は台北や高雄と違ってそんなにSARSが蔓延するほど深刻化していませんが、オフィスビルやマンションなどのエレベターの中にSARS予防対策のポスターが貼られ、また各家庭には学校や政府機関からSARS対策ブックなどが配布されてきました。SARSのせいで多くの人々の命が奪われ、人々の心は沈み、また不景気な世の中の経済をますます悪化させつつありますが、その中でたった一つのいいことは人々の衛生観念意識を高める役割をしたことかもしれません。例えば、手を洗うにしても、単に手を洗うだけではなく、洗ったあと、蛇口の栓を閉める時は(その栓の表面にばい菌がついているかもしれないので)その栓も洗わなければならないなどと細かく注意を呼びかけているのです。

■鉄道や学校などは日本時代に建設されたことをよく知っている人が多いと思いますが、水道や都市の地下排水工事も既に日本統治初期に行われていたのです。戦後中国大陸から台湾にやってきた人たち(外省人)は蛇口をひねると水が出てくるのを見て信じられず、摩訶不思議なものを見つめる表情だったといいます。なにしろ今でも中国では電気、水道のない生活をしている人がいるのですから、知らない人にとっては本当にマジックを見せられた感じだったのしょう。

■参考に台中で水道工事が始まったのは1914年(大正3年)のことでした。最初井戸を試掘した結果地下13mで良質の水が出て水量も豊富なので水道を設備することになったそうです。2年後の1915年5月17日より給水が開始した。水質がよく沈殿や濾過を要せず飲料水に使用できた。水源地に貯水塔を建ててポンプで地下水を汲み上げ自然流下によって送水した。(篠原正巳著「台中・日本統治時代の記録」より転載)この時に建てられた貯水塔は台中自来水公司(双十路)の敷地の中に残っています。今は倉庫などとして使われていますが将来は資料館や博物館の形でこの建物を保存していくそうです。まさに「飲水思源」ですよね。(自来水:水道の意味)

■いま手元にある台湾の中学歴史教科書に日本時代のことが記述され、その中に「近代的衛生観念の確立」という項目があり、その箇所には下記のようなことが記載されているのです。各家庭にゴミ箱を備えさせ、定期的に地域の清掃活動を実施し、予防注射、隔離、消毒、ネズミ捕り活動、強制採血、そして薬の供給といった防疫事業などの実施によりペスト、マラリアなどの伝染病の予防と治療が有効に行われ、台湾人の医療衛生に関する観念と習慣が改められた。たとえば、予防接種を受けたり、またトイレに入ったあとなどに手を洗う習慣が養われ、所構わず痰を吐いたりみだりにゴミを捨てたりすることがなくなった。前述の「台中・日本統治時代の記録」によると上記のことを裏付けるかのように次のような記載がありました。
1896年(明治29年)12月ペスト研究のため内地(日本)より学者を招致。
1897年(明治30年)10月にペスト予防法実施
1898年(明治31年)3月に中部地区の彰化・鹿港のペスト発生、全島に蔓延。
          台中街で各戸に健康検査実施、ペスト患者なし
1904年(明治37年)本年全島ペスト患者4500人 死亡者3374人(74.97%)
          本年マラリアによる死亡者数11880人
1911年(明治44年)、本年マラリアによる死亡者9104人初めて1万人を割る。

■台湾ではペストやマラリアといった伝染病はなくなりましたが、先人たちはこれらの伝染病を撲滅するのにどれだけ苦労したことでしょうか。今回の「新型肺炎(SARS)」に対しては、人類全体の英知を結集しその対策方法やその情報を共有しなければならない問題なのに、今回もWHOに台湾がオブザーバーの身分としても参加する問題が否決され残念でなりません。台湾の友人も言っていました。「本来政治とは関係ないのにね。全く。また日本政府が台湾の加盟について支持表明を出していたので期待してたんだけど、当日になって黙り込んでしまったということは、あの表明は台湾に対するタテマエだったのでしょう?」と言われて反論できませんでした。皆さんだったらどう答えますか?


40. SARSの話題

連日SARSの話題で持ちきりですが、台湾(台北)ではこれ以上の感染を防ぐために バス、タクシーの運転手にマスクの着用を義務つけるとともに、鉄道や台北捷運(MRT)の利用客に対してもマスクの着用が義務づけられました。メーカーでは急激なマスクの需要に生産が追いつけなくて、ある下着メーカーでは、この時とばかり、ブラジャー1つからマスクが2つできるとしマスクへの転用生産をはじめた所もあります。また一般市民の中にも、マスクが手に入らないならと言うのならとばかり、食堂の使い捨てお椀を利用して作ったマスクをしている人も出てきています。マスク業界ばかりでなく、SARSの経済効果は清潔用品業界をも波及しています。これといった予防ワクチンがない状況下で誰もが手洗い、うがい、住まいなどの周りの消毒を励行するようになったからです。SARS対策に「抗菌作用がある××商品がいい」とか、「××がいいよ」とか情報が流れると、その商品はまたたくまに店頭では品不足になってしまうのです。でも、SARSのおかげで、衛生清潔面に気をつけるようになったばかりでなく、これまで母子家庭のごとく晩御飯をたべていた家庭が一家団欒の日々になったとか、夜遊びしないようになったので早寝早起きの習慣になってきたとか結構プラス面が生じてきているんですよ。

■先月の産経新聞読者投稿ページの「アピール欄」で興味深い投稿がありました。台北駐大阪経済文化弁事処の処長(総領事に相当)羅坤燦氏が投稿された記事です。皆さんにも是非考えていただきたく、ご覧になった方もいるかと思いますが敢えて全文掲載します。

【アピール】SARS猛威の陰で忘れられた台湾 (4/15 産経新聞朝刊)
今、新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS、サーズ)が世界中で猛威をふるっている。既に二千六百人以上の感染者を出し、死者数も百人を超えるという。なんということであろうか。病例が発覚したが、ひたすら隠し通し、SARSの感染を世界中に広めてしまったにもかかわらず、ろくに非難もされなかった中国。そして病例が発覚した時点で即時、世界保健機関(WHO)に通報したが、メンバー国でないがため無視され、調査団でさえアメリカのCDC(疫病管制センター)を通じてようやく派遣されたという扱いを受けた台湾。この雲泥ともいえる差は、いったいどこから来ているのだろうか。

台湾はいち早く「防疫監測システム」を発動させ、感染症の拡散を最小限に抑え、死者を出すことなく完全にコントロールすることができた。いわば疫病防止の模範国である。こういった実績があるにもかかわらず、WHOの専門家会議には出席すらできない。その理由は言わずとも、中国からの政治的圧力によるものにほかならない。果たしてこのような不条理極まりないことが、まかり通ることを国際社会は見過ごしていいのであろうか。台湾は特に衛生保健面において無料で児童にB型肝炎ワクチンの接種を提供し、エイズの予防治療において有効的な追跡管理システムを打ち立てるなど、積極的に国際貢献に取り組んでいる。

WHOは世界すべての人々が享受できる衛生保健レベルの向上を一番の目的としている。その枠組みから台湾が除外されていることは、いかなる理由をもっても正当化することはできない。台湾は一九九七年からWHO加入案を推進してきたが、実に連続六年間蚊帳の外におかれてきた。今年も五月十九日にジュネーブで開かれるWHO総会において「衛生実体」という名目で「観察員」として加入案を再トライするつもりである。目下、アメリカ、カナダ、欧州などの議会において、すでに台湾のWHO加盟案を支持する決議案が採択されている。国際社会はSARSが猛威をふるう今日においてこそ、台湾を国際衛生保健の枠組みに取り入れることを厳粛に見つめ直し、受け入れなければならないのではないか。


39. 台中のバナナ

前回、台中にある「日本発見ツアー」のことを紹介したら、「台中のバナナ」の店をとりあげてもらいたい旨のメールが届きました。この店は日本で発売している観光ガイドブックにも掲載されているので、読者の皆さんの中は、すでにご存知の方もいるかと思いますが、ちょっと紹介しましょう。

台中会の月例会などでもよく利用していますので、台中会HPでもその店を紹介してあります。この店の正式な店名は「台湾香蕉新楽園人文生活館」というお店で、孔子廟の近くにあるレトロ風の喫茶レストランです。店の人の話では、ときおりバスで日本人観光客もやってくるそうです。土日は予約しないと座れない盛況ぶりで、何と昨年だけで20万人以上の人がここを訪れたそうで、店長は休むヒマがないとこぼしていました。外から見ると一体何の建物かわからないのですが、店内に入るとビックリ。中は戦前に逆戻りしたかのようなのレトロ感覚に襲われるのです。昔の街を再現し客の坐るテーブルの両側には理髪店や洋品店、雑貨屋、写真館、歯科診療室などが復元されていて、まるで一つの街に大きい体育館の屋根をかぶせたようになっているのです。店内にあるインテリアとなっている備品の一つ一つにオーナーのこだわりが感じられます。昔の映画館の窓口、リヤカーやポストから、壁に貼られたポスターや軒先に立てかけられた自転車、駄菓子屋に置かれた昔ながらのカキ冰機や、一昔前の教室などもあり、見ているだけで年配者はもちろんのこときっと懐かしさがこみ上げてくるものがたくさんあると思います。

オーナーの呉さんによると、この店を2001年秋のオープンするまで日本時代や戦後間もない頃のものを集めて準備に18年もかけたそうです。ぼくも日本統治時代の様子を紹介した本を出しているので、「展示コーナーに本を置かせてもらいたい」と頼んだ所、快くOKしてくれたのです。その時に呉さんから店で販売しているという「戦前の台中の絵葉書」をいただきました。興味のある方は下記のHPにアクセスしてみてください。

台湾を知る(絵葉書に見る戦前の台中) 
http://yamagata.cool.ne.jp/taichu/page1.html
台中駅からもそれほど遠くはありません。台中に来られる時はどうか、お見逃しなく。店の入り口の脇に日本製の古い電車がありますのですぐわかるはずです。台湾香蕉新楽園人文生活館 (台中市雙十路2段111号)電話04−2231−7890 営業時間11:00−翌2:00 年中無休


38. 住まい

台湾も以前は大家族制度で、これに即した三合院と呼ばれる伝統的な建築様式がいまなお、農村地帯に見られます。建物の周囲は防風と食用を兼ねて竹や檳榔が植えてあり、建物はコの字型をしており、建物の前は穀類を干す広場になっているのです。大廰と呼ばれる大広間には神様や祖先を祭る祭壇が設けられ、壁には書画などが掛けられています。大廰は冠婚葬祭の儀式を行う所でもあり、来客を迎える場所なのです。大廰の左手は両親の部屋で、以下年齢の順に従って部屋が決められるのです。こうした建て方は家族が増えても簡単に建て増しができて実に合理的ですね。

はじめて台湾に来た人の強烈な印象として残るものは交通事情のほかに台湾特有の住居の造り方でしょう。日本と違って一戸建ての独立した家はあまり見られないからです。その背景には歴史的要因と立地的な要因があります。大部分の家屋はお互いに密着し、隣の家とは共有の壁になっており、通りに面した商店街はどの店も、タテ長で間口が狭く、店の前には「亭子脚」(二階部分からは歩道に張り出してアーケードのようにする)が歩道を作っているのです。亭子脚は法律で定められた造り方で、強い陽射しが入るのを防ぎ、かつ雨やどりの役割を持っているのです。バイクで走っている時、急に雨が降ってきたときはここで雨合羽を着たり、雨宿りしたりできて台湾の風土に本当にピッタリなんです。ただ、この歩道の高さが各店によってマチマチなのと、また歩道に商品を並べた物売りの人がいたり、駐車場替わりにクルマやオートバイなどが止められていたりして、慣れない外国人にとって実に歩きにくいのがキズです。

ところで、どの家も最上階にはたいてい祭壇が設けられています。日本なら結婚式は神社やお寺などでするのが常識ですが、台湾ではかならずと言っていいほどこの祭壇のある部屋で儀式が行われるのです。社会の形態の変化に応じて、大家族が小家族になり、町では伝統的な中国式建築がだんだん姿を消し、人々はマンションなどの集合住宅に住むようになりました。ぼくが台湾に住み始めた頃(88年)まではエレベータなしの五階建てが多かったんですが、そのあとは高層化が進み、中庭・噴水・プール付きといった豪華マンションやワンルームマンションも数多くみられます。おもしろい事に同じマンションに住んでいても、みんな住所が違うのです。台湾の住居表示には一定のルールがあって、大通りは「路」、以下小さい道になるにつれて街、巷、弄となり、道路の右側が偶数なら左側は奇数番号なんです。たとえば住所が大和路342巷20号となっていたら、通りの名である大和路340号の建物を曲がった路地は342巷になるのです。そして順番に番号を追っていけば、はじめての所でも容易に目的地が捜せるのです。

ところで、台湾のマンションは日本には異なった特徴があります。まず、各家庭のドアのところには表札がなく、あるのは住所を示した番号だけ。そしてある家はドアが二重になっており、部屋に入って中から外を見ると、窓と言う窓には鉄格子がしてあるのです。これらはいずれも防犯上の理由からなんですが、いかに泥棒、強盗対策に苦慮しているかわかるでしょう。日本人はウサギ小屋に住んでいると皮肉を言われましたが、台湾の人達は、この鉄格子のせいで「まるで牢獄に住んでいるみたいだ」と、口の悪い外国人に言われているとか。でも、台湾の人達は日本人以上に財産は自分で守らなければならないのです。警察はあてにできないんだそうです。*まあ、それはそれとして、ぼくはこの徹底した防犯対策が逆に火災の時にアダになる両刃の剣であることに気が付いているのか心配なのです。

ほかにも違う点が三つあります。一つは玄関のドアが内開き、即ち入る時はドアを押すようにして入るのです。二つ目はバス、トイレがいっしょになっていることです。日本では風呂場とお手洗いが分かれているので、初めての人はきっととまどうことでしょう。なかなか慣れないで困っているという駐在員も少なくありません。最後に、台湾では分譲マンションの場合、最上階を買った人がその上空を自由に使える権利があるのです。だから、最上階の戸数が四戸なら小屋が四つ、それぞれの住まいのちょうど真上に、物置に使ったり書斎に使ったり実用に即して建てられるのです。大きなマンションやビルの屋上には、色、形、大きさの異なる幾つかの小屋があったり、大きな立て看板があったりして、景観よりも実用本位の考え方が浸透しているのがよくわかります。
                    
■台中に住んでいる人なら誰でも知っている台中駅、台中公園、台中市政府、彰化銀行本店、大同国民小学校、―これらに共通するものがあります。それは戦前(日本統治時代)から台湾に残っている由緒ある建物などなのです。また市内には戦前からの瓦屋根の家屋も見られるのです。以前台中に住んでいる日本人で古跡などに興味のある人とともに「日本発見半日ツアー」を企画したことがあります。日本語の達者なお年寄りの人からガイドしてももらって、当時の様子を聞きながら巡り回ること2時間余。そのあとは日台交流お茶会となり有意義な半日を過ごすことが出来たのでした。


37. 雨夜花(ウーイヤホエ)

台湾に団体ツアーで来たことのある皆さんの中には、この曲を耳にされたこと人が多いかと思います。ぼくは、はじめて台湾に来た時にバスガイドさんがきれいな声で披露してくれ、それ以来すっかりこの曲が好きになってしまったのです。(台湾語なのでカタカナ表記は正確でなく、あくまでも参考にして下さい)
雨夜花 雨夜花(ウーヤーホエ ウーヤーホエ)
受風雨吹落地。(シューフォンウ ツエイロテ)
無人看見 暝日怨嗟(ボランクワキ ムイリワンツエ)
花謝落土不再回。(ホエシャロト ブツァイホエ)
花落土 花落土(ホエロート ホエロート)
有誰人可看顧。(ウシャンラン タンクァワコ)
無情風雨 誤阮前途(ボチエンホンホ ゴグエンチエント)
花蕊凋落要如何。(ホエルイナロ ベールホー)
雨無情 雨無情(ホーボーチン ホーボーチン)
無想阮的前程。(ボーシュウ グエンチエント)
並無看顧 軟弱心情(ビンボークァホールリャオシンチン)
害阮前途失光明。(ハイグンチェントーシクアンミン)
雨水滴 雨水滴(ホーツイテー ホーツイテー)
引阮人受難池。(イングンランシューナンテー)
怎樣乎阮 離葉離枝(ツァーユーホーグンリーヒョウリーキー)
永遠無人可看見。(ユングァンボーランタンクアキ)

雨の夜の花(西条八十・作詞)
(1) 雨の降る夜に 咲いてる花は 風に吹かれて ホロホロ落ちる
(2) 白い花びら  雫にぬれて 風の間に間に ホロホロ落ちる
(3)更けてさみしい 小窓のひかり 花を泣かせる  胡弓の調べ
(4)あすはこの雨 止むやも知れぬ 散るを急ぐな かわいい花よ

1934年(昭和27年)台湾で発表された曲ですが、日本でも「雨の夜の花」或いは「南国の花」という題名で渡辺はま子や三沢あけみ或いはテレサテン、こまどり姉妹等が歌っていますから、この曲をご存じの方も多いかと思います。台湾では超有名なナツメロで、台湾の歌手ではテレサテンのほかに、鳳飛飛などもこの歌をレコーディングしています。この歌は、?雨賢の作曲で、男に捨てられた女の悲しみを、雨の夜 に散った白い花びらに比喩して歌っているそうです。

●もう一つ戦前高砂族の間で現在も歌い継がれている日本時代の歌に「誉れの軍夫」があります。この歌は「雨夜花」のメロデーで歌われている替え歌ですが、当時の日本正規兵と遜色のない勇敢さで任務を遂行した台湾人軍夫たちの生きざまが偲ばれます。軍夫とは戦時中、軍属の身分で従軍した人夫で戦地での弾薬搬送や陣地構築、道路の敷設などに活躍したそうですが、このような人たちの存在を知っている日本人は果たしてどれだけいるでしょうか。

「誉れの軍夫」
赤いたすきに 誉れの軍夫 うれし僕等は 日本の男
君にささげた 男の命 何で惜しかろ 御国のために 花と散るなら 桜の花よ
父は召されて 誉れの軍夫

●また軍夫のほかに高砂義勇兵の一人である高雄州出身のダリンさんは次のような血書をのこしているのです。
「テンノウヘイカバンザイ 私ハ日本ノ男デス 大和ダマシイガアリマス ドンナクルシイコトデモ テンノウノヘイカノタメクニノタメナラ クルシイコトハオモヒマセン」
ダリンさんが生きて帰ってきたかはわかりませんが、台湾の人たちはこのような気持ちで戦地へ赴いたのです。その彼らは「日本政府から、戦前は『お前らはみんな日本人だ。天皇の子供だ。』と言われ続け、戦後は『お前らはもはや日本人じゃない。だから戦後補償の義務はない。』と見捨てられたのです。法的には確かにそうなんでしょうが、もと日本兵の人が「あなた(日本政府の人)がもしわたしだったら、そう言われて納得しますか?」と問いかけてきた時の表情を今も忘れることができません。


36. 思い出の遊び

皆さんは小さい頃どんな遊びをしたでしょうか。以前のように自然の中でガキ大将を中心に遊ぶ子供たちは台湾でもほとんど見られません。台湾の学校は小テスト、週テスト、月テストといつも試験の連続で遊びたくても遊ぶ時間がないというのが実情です。彼らにとってテレビゲームやパソコンが唯一の友達ではあまりにもかわいそうですよね。誰もが高学歴を望む社会になっていつも「勉強しなさい」とせきたてられ、勉強せずに遊んでいる子供は「悪い」子供と世の人々から烙印をおされているような気がします。その点ぼくらが小さい頃は川に魚を捕まえに行ったり、神社の境内で町内の子供同士が集まって日が暮れるまで一緒に遊んだものでした。外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえなくなってきたのはいつの頃からでしょうか。今日紹介する内容は、戦前台湾で過ごした人の(少年時代の)なつかしい思い出の中で、今ではほとんど見かけなくなった子供の遊びです。でも、台湾の40歳以上の人達に絵を見せたら「ああこの遊び、自分もやったことあるよ」と懐かしそうに語ってくれたのが印象的でした。

●いち、にっさん、し と足芸(思い出の遊び) 絵と文:吉田道夫
絵は下記のアドレスをクリックすればご覧いただけます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou.html

何と言う名前のついた遊びか知らぬままたっていたのが実情、もともと台湾の人達がやっていたものを真似してやってたのだろうが、一銭銅貨を和紙に包みこんで、縛り、上をひらひらの鰭状にして足の平で蹴る遊びである。子供の頃は上達が早いもので、上手な人は一度に続けて何十とつく。私のような運動神経の鈍いものでも十から十四〜五ぐらいは出来たように記憶している。(現在やって見るとせいぜい四つか?五つ)

これをボール(フットボール)に応用してやる事も盛んだった。蹴り方は、足を内に曲げて蹴るのが多く一般的だが、亡くなった川畑捨男さん等は(左図)の如く足先でやっていたのが印象に残っている。ルールとて別にない。続けて沢山つければよいのである。金をかけず、場所をとらず、個人でもやれるし、グループでも遊ばれる。見かけはあまりよくないが、運動量も可なりで、男の子の遊びとしては格好のあそびである。先日テレビで見たわけだが、中国人等は、前から後へ、いろいろと形を変えて、自由自在に…….そんな達人もいる。


35. 何日君再来

読者の皆さんの多くは「何日君再来」の歌を知っている人が多いと思いますが、それは日本語で歌われているものですか?それとも中国語でしょうか?ぼくは台湾に住み始めてしばらくしてテレサテンのテープでこの歌を知りました。でも中に入っている歌詞カードが中国語なのに、テープを聞いたら日本語バージョン(「何日君再来」の部分だけ中国語)だったのです。それで歌詞カードの通りに中国語で日本語の学生さんたちに歌ってもらって以来、この曲は「お気に入り」の中国語の歌の一つになったのです。勉強のつもりで日本語訳に挑戦してみたのですがなかなか気に入った訳ができず今日にいたっていましたが、最近になって中薗英助著「何日君再来物語」という本があるのを知ったのです。(注:興味のある方に是非この本をお薦めします。)そして、本の中でこの歌に関するいろいろなエピソードとともに著者による日本語訳があり、長年の問題がいっきに解決した次第です。皆さんの中で、中国語バージョンを持っている方は、出来ましたら聴きながら以下の翻訳文をご覧下さい。意味がわかったら、次は目を閉じて音楽だけを聴いてみてね。どうですか。

一、 
好花不常開          よき花常には咲かず
好景不常在          よき運命(さだめ)常にはあらず
愁堆解笑眉          愁い重なれど面(おもて)に微笑み浮かべ
涙洒相思帯          涙溢れてひかれる想い濡らす
今宵離別後          今宵別れてのち
何日君再来          いつの日君また帰る
喝完了這杯          乾しませこの杯を
請進点小菜          召しませこの小皿
人生難得幾回酔        人生幾度酔う日有らんや
不歓更何待          ためろうことなく歓つくさん
「来来来、          「さささ、この杯乾して
 喝完了這杯再説(ロ巴)」     いまひとたび語らいましょう」
今宵離別後          今宵別れてのち
何日君再来          いつの日君また帰る
二、 
逍楽時中有          逍遥の楽しみ常に有れど
春宵飄無裁          春宵は疾風(はやて)のように過ぎ
寒鴉依樹尖          寒鴉は木の梢により
明月照高台          明月は高台を照らす
今宵離別後          今宵別れてのち
何日君再来          いつの日君また帰る
喝完了這杯          乾しませこの杯を
請進点小菜          召しませこの小皿
人生難得幾回酔        人生幾度酔う日有らんや
不歓更何待          ためろうことなく歓つくさん
「来来来、          さささ、
 再敬(イ尓)一杯」      もう一杯おあがり」
今宵離別後          今宵別れてのち
何日君再来          いつの日君また帰る
三、
玉漏頻相催           水時計しきりにせきたてて
良辰去不回           良き時逝きて返らず
一刻千金価           一刻千金のあたい
痛飲莫徘徊           痛飲して徘徊するなかれ
今宵離別後           今宵別れてのち
何日君再来           いつの日君また帰る
喝完了這杯           乾しませこの杯を
請進点小菜           召しませこの小皿
人生難得幾回酔         人生幾度酔う日有らんや
不歓更何待           ためろうことなく歓つくさん
「来来来、           「さささ、
  再敬(イ尓)一杯」       あなたに杯をもう一杯献じましょう」
今宵離別後           今宵別れてのち
何日君再来           いつの日君また帰る
四、
停唱陽関畳           立ちて陽関三畳を唄い
重(敬/手)白玉杯        幾度か白玉の別杯をあげ
殷勤頻致語           懇ろに慰めの言葉重ね
牢牢撫君懐           しっかりと君がみ胸撫でん
今宵離別後           今宵別れてのち
何日君再来           いつの日君また帰る
喝完了這杯           乾しませこの杯を
請進点小菜           召しませこの小皿
人生難得幾回酔         人生幾度酔う日有らんや
不歓更何待           ためろうことなく歓つくさん
「Ai! 再喝一杯乾了巴!!」   「アイ! もう一杯呑んで ぐっと乾して」
今宵離別後           今宵別れてのち
何日君再来           いつの日君また帰る
          注:( )で括ったものは本来は一文字です。
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ぼくが買った上述のテープでテレサテンが歌っていたのは、(後日知ったのですが)日本語バージョン(長田恒雄氏の訳詩)の中の1番と2番だけでした。それでは以下3番を含めて、日本語での「何日君再来」です。
                        
一、
忘れられない あの面影よ 
ともしびゆれる この霧の中
二人ならんで 寄りそいながら
ささやきも ほほえみも
楽しくとけあい 過ごしたあの日
ああいとしの君 いつまた帰る
何日君再来         

二、
忘れられない 思い出ばかり
別れて今は この並木道
胸に浮かぶは 君のおもかげ
思い出を 抱きしめて
ひたすら待つ身の わびしいこの日
ああいとしの君 いつまた帰る
何日君再来

三、
忘れられない あの日の頃よ
そよ風かおる この並木道
肩を並べて 二人きりで
喜びも 悲しみも
うち明けなぐさめ 過ごしたあの日
ああいとしの君 いつまた帰る                            何日君再来
                  
最近になってテレサテンの「何日君再来」は4種類あること、またジュデイオングも歌っているCDがあることを知り驚きました。戦前は「支那の夜」で有名な渡辺はま子や一世を風靡した李香蘭(山口淑子)によって歌われていたそうです。そしてこの曲を最初に歌ったのは「周旋」(シュウ、セン)と言う歌手で、それから極みつきは中国人男性歌手(黄清石)による日本語バージョンがあるとか。同じ曲がこんなに多くの歌手によって歌われていたとは夢にも思いませんでした。「いつかこれらのテープ(CD)を一堂に集めて聞いてみたいなあ」と思うのは欲張り者の夢物語でしょうか?


34. カラオケ

台湾ではカラオケは二種類にわかれます。一つは日本と同様にカラオケ・スナックでレーザーディスクなどの映像に合わせて歌うところと、もう一つはKTVと呼ばれているカラオケ・ボックスです。このKTVは気の合った仲間同士が個室を貸し切って楽しめるところなんです。カラオケ・スナックはよその客と一緒なので、順番が回ってくるまで待っていなければならないし、あるときは赤の他人の下手な歌に義理で拍手しなければならないし、そんなこんなでこの種のカラオケはKTVに比べて人気がないようです。台北でも台中でも町の中どこでもKTVの看板が目につきます。ただ、都会にあるKTVは雑居ビルの中にあるのがほとんどです。最近KTVの火災が相次ぎ、ビルのなかのKTVは怖いというので、庭園式で各部屋が独立した一戸建てのKTVが受けています。なにしろ、いまはクルマは庶民の足替わり。こういったKTVは駐車するのに余計な心配せずにすむので、マイカー族に大もてなんです。では、台湾に来たことがない人のためにKTVにご案内しましょう。

ここは、台中駅から一直線。高速道路入り口手前の台中港路と呼ばれる大通りの左側にある巨大なKTVです。はじめて来た人はそのあまりのでっかさに驚き、おののき、桃の木になるかもしれません。日本だったら、田舎のバイバスに面して建っている大きなパチンコ屋? いや、それよりすごいんです。周囲は民家がなく、ひときわ大きいKTVのイルミネーションが光り輝き、駐車場は軽く百台は収容できるスペースにベンツ・ボルボ・BMW・トヨタ・フォード車などがずらり。まるでクルマの展示会なみ。また、敷地内には子供のための遊戯施設やスーパーなどがあって、お客さんはここで食べ物や飲み物などを買って、部屋に持ち込みできるシステムなのです。さあクルマから降りて中に入ってみることにしましょう。

玄関の自動ドアが開くと、制服姿の案内嬢とボーイさんが数人で「歓迎光臨」(いらっしゃいませ)と迎えてくれます。受付けのカウンターでこちらの人数と部屋の大きさをリクエストすると、コンピューターで部屋の確認をしたあと、一枚のカードをくれるのです。そのカードには受付け時間、人数、部屋番号などが記入されています。なにげなく周囲を見渡すと、何となくシティホテル風。ここは中庭を囲むようにしてすべてバンガロー式になっており、恋人同士だけの小さな二人部屋から三十人ぐらい入れる大きな部屋まであるのだそうです。数分後ボーイさんが案内してくれた部屋はトイレつきの十人は楽にソファに座れる広い部屋でした。ここのKTVの料金は人数に関係なく部屋の広さによって一時間あたりの料金が決まっているのです。ちなみに、ぼくたちの部屋は五百元(日本円約二千円)とのこと。これに別個に注文した飲み物、つまみ類と掃除代などが加算されるのです。

部屋に入ってまず目に入るのが、正面の大型テレビ。ソファーのそばにはパソコン。テーブルの上には二本のマイクと選曲のための本が二冊置かれてあり、一冊は国語(北京語)と台湾語と子供の歌。もう一冊は広東語と日本語と英語の歌のそれぞれ、三部構成になっていて、自分が歌いたい歌はこの中から選んで選曲したコード番号を入力すればいいのです。パソコンの画面には選曲順に曲目が現れ、もし曲目がわからない時は歌手の名前からも探し出せるのです。日本の歌は演歌中心で「なつメロ」が多く、最近の新しい曲やヒット曲を知らないぼくにとっては好都合。それに自分が歌った歌をカセットテープに録音して持って帰ることもできるんです。そして、コード番号を間違えて入力して画面に出て来た曲をキャンセルする場合は「切歌」キーを押せばいいのです。どう?日本のカラオケよりも進んでいるでしょう? もし途中で料金が気になったら、パソコンの画面の指示に従って操作すれば、今時点での料金が画面に表示され、これ以上の明朗会計はなし。心配無用、安心して楽しんでください。 

歌は全然歌わなくても、ずっと歌いぱっなしでも料金は同じなので、時間が同じなら歌わなけりゃ損だというので、たいていのグループで来た人達は部屋に入ってから出るまで常に誰かが歌っているのです。そして「星影のワルツ」「時の流れに身をまかせ」「酒よ」などの日本のヒット曲のメロディが国語や台湾語でつぎつぎと歌われ、それならこちらは負けずに日本語でということになり、ここは異国なのか日本なのかわからなくなってしまううちに時間があっと言う間に過ぎてしまうのです。つまらない退屈な時間は長いのに、KTVで楽しんでいると本当に時間が短く感じられますね。こうして台湾全体でいくつあるか数えきれないほどのKTVの個室のなかで連日深夜遅くまで日本の歌が歌われているのです。そんなことを考えると、台湾はまるで日本の四十七番目の県のような気がします。ふとそう思うのは、ぼく一人だけでしょうか。

以前こんなことがありました。あるカラオケスナックで、とても上手に日本の歌を歌っていたので「日本人かな」と思って話してみたら、日本語の全然通じない台湾の人だったのです。日本語が話せなくても日本の歌が歌えるなんて「すごーい」とビックリしたことがあります。まさにこれは、日本で中国語の話せない日本人が中国語の歌を上手に歌っているのと同じこと。台湾ではこのような人が少なくないと言いますから、全く脱帽してしまいますよね。

台湾ではカラオケの曲の中に日本の歌が中国語や台湾語の歌詞で歌われている歌(替え歌)がたくさんあります。それで同じ曲を日本語や中国語(台湾語)で歌いあうと、お互いに言葉が通じなくても交流ができます。まさに「歌に国境は、なし」ですよね。また中国語(台湾語)の歌が日本語に翻訳されている歌もあります。その中で日本人からもよく知られている台湾の老歌(ナツメロ)を次回紹介してみたいと思います。


33. 老板(ラウパン)

日本では履歴書に転職歴が多いと採用する側は警戒しますが、台湾では逆に数多くの会社で働いた経験がある方が有利なんです。それは台湾の人達は「転職できるのは能力があるからだ」と信じているからです。そして最終的には自分がラウパンになる夢を持っているのです。このあたりは「寄らば、大樹の陰」と考えている日本の若者とちがいます。*ラウパンとは、日本語で訳すと経営者、すなわち「ボス」のことです。

中国の故事からきた諺で「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がありますが、その言葉通り台湾の人達は大きな会社の平社員よりも小さな会社であっても自分はボスになりたいのです。台湾の人達と初対面で名刺をもらうと、一体この人は何が本職なのかわからないくらいいろいろな仕事を持っている人がいます。ある人は保険の仕事のほかに教育関連の仕事やカラオケの仕事という風に、二つ、三つの仕事をもっているのはざらなんです。一般の会社員でも、サイドビジネスをしている人が多いのです。それは将来ラウパンになるための準備期間だと心得て会社勤めに行っているのかも知れませんし、たとえラウパンになっても一つだけの仕事では食えないからのようです。だから、おいしい話があって3人集まると、すぐ共同で事業を始めようとするのです。しかし、共同経営し軌道に乗ると、その段階から、それぞれがお山の大将になりたがっているので、なかなかうまくいかないのが現実のようです。

6月は台湾では卒業の時期であり、会社の労務担当者らが学校関係者らに頭を下げて、求人活動に走り回ります。しかし、ようやく集めた生徒たちに時間をかけて訓練、教育して仕事につかせるのですがなかなか定着しないのだそうです。辞める理由を聞いたところ、「だって、先生がそこで働いてみて、もしいやだったら、よその会社へ移って働いたらと言われたんだもの。」と答えた女の子がいたとか。「最初は辛くても我慢してやり抜きなさい。」と言って励ます先生は残念ながらいないようです。仕事が楽で給料の高いことがなによりも優先され、台湾でも3Kと呼ばれている産業界は人集めに頭を痛めているのです。

一つの会社に定着しない原因は、いろいろあります。働く側から言えば、会社の都合で突然解雇を言われる、年功序列で昇進するわけではない、待遇が悪い等々。また雇う側から言えば、会社に対する帰属感が薄いうえに、よそに少しでも条件のいい所があればすぐ辞めてしまい責任感がない、会社で一通りの技術を習得すると、すぐに裏切り行為に走ってしまう等々。だから、必然的に会社の重要な幹部は身内のみにたよる結果となるのです。そんな訳で経営者の方も、社員の転職歴は気にせず人材と判断したときは採用するのです。今日の台湾経済を支えているのは、90万社に及ぶという膨大な零細中小企業のラウパンの人達と言っても過言ではないのです。台湾では雑貨店のご主人も、露店商のおやじさんも、ラウパンなのです。だから、こういった個人事業主を加えたら、台湾では一体ラウパンと呼ばれている人の数は、どのぐらいになるのでしょうか。きっと、石を投げたらラウパンの頭に当たりますよね。

考えてみると、台湾の社会はオープンで誰に対しても平等にビジネスチャンスが与えられているような気がします。それは年齢や経験年数よりも実力を重視する考えからきているのだと思います。だから2、30代の若いラウパンが男女問わず多くみられるのです。最近知り合った日本語学校のラウパンも、数年前台湾に戻って来たばかりの早稲田大学留学生で、まだ独身なのです。でも、彼は日本語も英語も流暢に話せて日本語以外にも翻訳や出版の仕事もやっているのです。また、まだ30代の若き建築家は10数人の人を雇い日本の建設会社の仕事を受注したりしているのです。また若い女性のラウパンでも男性顔負けの人が多いのです。

ラウパンといっても、ピンからキリまでいますが、共通しているのは誰もが「クルマはベンツ、時計はローレックス」志向なんです。そして昨今の猛者のラウパンは信号待ちで止まっているときも、走っているときも、左手に携帯電話を持って話しながらバイクの片手運転をしているのです。本当に台湾のラウパンは命懸けみたいですね。日本で「ラウパン」と話す時の会話は
「すみません。××はありませんか。」
「すみません。コーヒーひとつお願いします。」
「すみません。これ、取り替えてくれませんか。」
こんなふうに、いつも「すみません」と先に言う場合が多いのですが、台湾では「すみません」のかわりに、「ラウパン」と呼んでください。例えば、夜店で買い物する時は「ラウパン、もっとまけてよ。わざわざ、日本から来たんだから。」


32. 台湾人の母親

日本語の中に「良妻賢母」という言葉がありますが、台湾では「賢妻良母」と言うのです。字を見て比べてみると面白いことに気が付きます。夫にとって妻は賢くあるべきか、いや良き妻であるべきか。同様に子供にとって母親は賢くあるべきかまたはいい母であるべきか。公園デビューとか教育ママとかお母さんに関係した流行語がありますが、皆さんも「良妻賢母」がいいか「賢妻良母」がいいか、ちょっと再考してみてください。子供にとっては、頭のいい賢いお母さんよりもやさしくて思いやりがあっていつも子供の味方になってくれる包容力のあるお母さんがいいのではないでしょうか。戦前は何処の家でも子供がたくさんいて育てるのも並大抵ではなかったと思いますが、日本のお母さんと台湾のお母さんの子供に対するしつけは同じなのでしょうか。それとも全然教育の仕方が違うのでしょうか。そのあたりを吉田先生の描かれた画集の中の「台湾人の母親」で見てみましょう。

●台湾人の母親(絵と文:吉田道夫)
絵はこちらから↓
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou.html
台湾の母親の子育ての中で、強く印象に残っている一面。それは小さい時に事の善悪をきちんとしつける態度、それも厳しくしつける事は、実に見事だという思いを今も忘れない。子どもが何か間違ったことをした際、彼女は、その場でそれを窘める事を即座に行った。それも日本人の母親達が口先で叱ったり、頭を叩くようなことは絶対にしないことである。子どものわるさを見つけたら先ず一喝、はげしく怒鳴り、叩くときは、必ず尻ぺたを叩いた。それも竹の棒か、何かの切れぱしを見つけて「ヤウシュウギナ、ヤウシュウギナ」といって尻を叩くのであった。子どもは、この一件に懲りて悪の芽を出さなくなる。再び繰り返したときは、またははげしく怒鳴りながら「パァシイロー、パァシイロー」(叩くぞーの意)を繰り返しつつ、何か竹棒でもさがすジェスチャーをする。子どもは、叩かれてなるものかと泣き喚きながら逃げ去る。これも母親の智恵の一端であるといえようか?どこまでも自分の責任においてやったものである。

※この伝統的習慣は今もなお、各家庭でみられますよ。台湾人の家庭にお邪魔した時に、その家のお母さんがこども(幼稚園児)が言うことを聞ないときなど物差しなどを利用して(頭でなく、)お尻をたたいていました。(絵の補足説明)子供のお尻の所に注目してください。ここの所、穴があいていますが、これはわざとこのようにしてあるのです。それは子供が用を足す時にそのまま下着を汚さずにできるからです。また子供が竹製の椅子に坐っている時におしっこをしてしまっても、台湾の天気は暑いので水洗いしたあとすぐ竹製椅子は乾いてしまうので大変便利です。またこの椅子は子供だけでなく横に倒せば大人も座れるようになっており、まさに生活の智恵から生み出された産物と言えますよね。


31. 阿里山

今月1日に発生した阿里山鉄道の脱線事故は皆さんニュースでご存知だと思います。でも阿里山に関する下記のようなことをご存知でしょうか。
1. 台湾最高峰の玉山(日本時代は新高山)の西側3000?級の山々を総称して「阿里山」と言う。
2. ちなみに新高山という名前は明治天皇が名づけ親である。
3. 阿里山鉄道は明治時代に作られた。
4. 日本の多くの神社仏閣に阿里山の檜が使われていた。
5. 阿里山は桜の名所でもある。
阿里山は1.雲海の眺望 2.祝山から仰ぐ御来光 3.美しい自然を満喫できる森林遊歩道そして今回の事故の 4.森林鉄道が当地のキャッチフレーズです。そしてこれに是非加えたいのが「桜」です。1月の山桜から始って、今月3月は染井吉野の開花時期でそのあとは千島桜、吉野桜、大島桜、最後が牡丹桜、東錦桜、八重桜と8種類の桜が4月中旬まで続くのです。

台湾の木材が靖国神社の神門、東大寺大仏殿の垂木などに使われているのを、皆さんご存知でしたか。それらはすべて阿里山の檜なのです。明治神宮の鳥居にも、かっては使われていたそうですよ。それは、巨大材となる檜を伐りつくされた日本国内にかわって、阿里山の森林は檜材の一大生産地だったからなんです。いまでこそ台湾有数の観光地として有名ですが、元々は斧の入らぬ太古の大森林だったのです。阿里山の森林が日本人に発見されたのは、台湾が日本に帰属して間もない明治33年(1900)だそうです。ちょうど縦貫鉄道の建設中の時、阿里山で伐採した木材を運ぶために鉄道利用を考案したのが河合博士と言う人です。当時の阿里山は地勢と気象の厳しさに加え、原住民の襲撃の恐れもあり入山は危険なものとされていました。しかし博士の足で調べあげる活動に当時のロマンが伴っていたようです。その中の逸話を紹介してみましょう。

ある晩、博士が露営のために大きな石の上に横たわっていると、上空の月は眠れないほどの明るさで、その光に照らされる森林の幽寂さにすっかり酔いしれたのです。そこで、その地に「眠月」(みんげつ)と言うなんとも風流な名をつけたのです。それが、眠月線眠月駅(現在はこの線は未使用)付近なのです。さて、博士はやがて測量と設計に着手、工事は明治39年に始まりましたが当時は機械力も資金も乏しく、かつ水害などに見舞われるなど多くの困難が伴いました。それでもわずか6年後の同45年に全長72キロ、高度差2160mにも及ぶ、わが国初の山岳鉄道が完成したのです。その後完全稼動まで数年の歳月を要しましたが、路線上の幾多の橋梁、トンネルなどすべてが当時の努力の成果で今日の森林鉄道に引き継がれているのです。※博士の死後、その業績を伝えるために碑が建てられ、また高山博物館には博士の木像が展示されています。

太平洋戦争(真珠湾攻撃)の際の暗号文「ニイタカヤマノボレ」はあまりにも有名ですが、この「新高山」の名は明治天皇によって名付けられたのだそうです。明治42年に明治天皇は下記のように歌を詠まれています。
「新高の 山のふもとの 民草も 茂りまさると 聞くぞうれしき」

ぼくが最初に阿里山を訪れた時(10数年前)、次のような日記を記していました。
「始発の嘉義駅から沼平駅までディーゼル機関車が途中スイッチバックしながら3時間半かかって登った。サトウキビ畑から針葉樹林まで台湾の植物垂直分布の生の学習教室が体験できた。そして終点付近と平地との温度差は10℃近くあり真夏日でもここは天然のクーラー付きの別天地といった感じ。下界の眺めは最高! 夜は厚着を着込んでかつ毛布を借りて寝る。翌朝3時半起床。祝山での御来光は何とも言えぬ感動を覚える。午前中近くにある巨木の森林地帯を散策。ひんやりとした空気と、わずかに木々の隙間から差し込む薄い陽射しが幻想的な気分をかもし出す。ここはまるで別世界のようだ。」


30. ことば

「現在、台湾のテレビニュースはいくつの言葉(何語)で放送されているでしょうか?」日本人でこの問題を正確に回答できる人はかなりの台湾通と言えるでしょう。正解は中国語、台湾語、客家語の3つなんです。これは台湾の特殊事情を表わしています。一昔前までは台湾語は禁止されていたのです。公的な場所では中国語で話さなければならなかったんです。それが最近の民主化政策により、だんだんと緩和されるにつれ上記のような結果になったのです。*ちなみに、台湾では中国語(北京語)のことを国語と言っています。

台湾に来る時は団体ツアーでなく、個人旅行をお薦めします。それは台湾の人達の生活に身近に接する機会が多いからです。ある人は「外国人と友達になれる方法はその国の人達が食べるものを一緒に食べること。」と言っています。台湾はまさにグルメの人にぴったりです。一口に中国料理、台湾料理といっても種類が多いんです。そして、食べながら彼らの話している言葉に耳を傾けてみて下さい。こんなに狭い台湾でも所によって言葉が違うのです。台北は政治、経済の中心ですから、もちろん国語。そして、新竹県・苗栗県などの中部に住む客家人と呼ばれている人達は客家語で、台中、高雄では台湾語が町のなかでも、会社のなかでも広く使われているのです。

台湾に住み始めた頃は、国語と台湾語の区別がつかず、同じように聞こえたんです。そのうち、ある日本人の先輩がこう教えてくれたんです。「若い人同士の会話は国語、中高年者の会話は台湾語が多いよ。」 歴史的・時代的な背景により、台湾では出身や世代によってそれぞれ話す言葉が違うのです。まず、台湾生まれの65歳以上の日本教育を受けた人達はほとんど台湾語で話し、日本語の話せる人もおおぜいいます。年配の人同士で話す時は日本語でという人も目立ちます。しかし終戦後、外省人と呼ばれている大陸からやって来た人達は中国語を使い、台湾語の話せる人は少ないんです。終戦後は中国語教育に変わったために戦後生まれの若い人達はほとんど国語で話し、中高年層は両方話せますが、国語より台湾語のほうが素直に自分の感情が表現できると言います。*戦前から台湾に住んでいる人達は自らを「本省人」、戦後大陸から来た人達を「外省人」と区別してきました。しかし、戦後半世紀が過ぎた現在、この言葉は死語になりつつあります。台湾生まれの人達が総人口の大部分を占めるようになってきたのですから。

同様に、山地人(戦前は高砂族)と呼ばれる原住民の人達も世代により違うのです。原住民は9つの部族に分かれ、それぞれの部族によって言葉が違いますが、自分の部族の言葉を話せるのはお年寄りの人だけで、若者は国語なのです。それは山地人の言葉は話し言葉だけで文字がないことも原因の一つかもしれません。そして、面白い事には、かれらの共通語は日本語なんだそうです。それは、台湾がかって日本に統治されて、徹底した日本語教育が行われていたからなんです。考えてみると、昔の日本人は、首を狩る習慣のありかつ言葉の通じない原住民の人達を相手に、日本語を教えたのですから、想像できないくらい大変だったと思います。

そんな訳で今、台湾では、こういう人達が見られるのです。一つは老人大学で国語を勉強しているお年寄りの人達、次は「私も台湾の米を食べて大きくなった台湾人です。」と言って台湾語を学んでいる外省人の人達。そして「これからの社会は英語ができないとだめよ。」と言って幼稚園児に英語を習わせる母親達や日本語が全然話せないのにカラオケで日本の歌を上手に歌っている人達。だんだん消えていく原住民の言葉を残そうと努力している人達。そして最後は、ぼくのように365日ずっと日本語だけで暮らしている人もいるのです。ああ、台湾はなんてすごい所なんでしょう。                        (台湾見聞録P31)

**台湾では平埔族(比較的平地に居住地域がある原住民)の言語を含めると何と20数種もの言語で話されていますが、教育部(文部科学省に相当)ではこのほど「言語平等法草案」を完成し、台湾で使用される言語の内、原住民と認定されている11種族の原住民言語、台湾で一番話されている台湾語、教育で使用されている国語(台湾式北京語)が「国家言語」であるとともに言語、文字の使用が一律で平等扱いされると明記されています。

草案ですと、各レベルの地方自治体がその地域で使用する言語で地名を命名、標識することも可能になる他、自らの種族の言語または文字を使用して命名する権利も認められます。 「国家言語」とされた言葉は、原住民十一種族の言語【アミ(阿美)族、タイヤル(泰雅)族、パイワン(排灣)族、ブヌン(布農)族、カバラン([口葛]瑪蘭)族、ピウマ(卑南)族、ルカイ(魯凱)族、ツオー(鄒)族、サイセット(賽夏)族、ヤミ(雅美)族、シャオ(邵)族】、客家語、台湾語、国語(台湾式北京語)の十四種類。


29. 蛍の光・続編

前号にて「蛍の光」の歌詞を紹介しましたが、読者の中から講談社版「日本の唱歌」の中の「4番の冒頭」の歌詞は「ちしまのおくも おきなわも」とあり、メルマガのと違うけどとメールが寄せられましたので、お答えします。

皆さん、台湾の短歌愛好者の人たちが詠んだ歌を収録した「台湾万葉集」と言う本を知っていますか? その本の中に次のように詠まれた蕭翔文先生(故人)の短歌が掲載されています。わが唄う「蛍の光」の4番は「台湾のはても 樺太も」とありもともとこの曲はスコットランド民謡「久しき昔」という曲で、明治14年(1881)に文部省音楽取調掛所長の伊沢修二氏により日本初の官製唱歌「小学唱歌集」に取り入れられ、その時の題名は「蛍」でした。その中の4番の歌詞は「千島のおくも沖縄も」ではじまっていたのです。その後、日清戦争で台湾を、日露戦争で南樺太をそれぞれ領有するに至り、この4番が「台湾のはても樺太も」となったのです。しかし、昭和20年(1945)8月の終戦により、その講和条約で台湾及び樺太・千島領有を放棄し、3番と4番は歌われなくなってしまったのです。まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」の言葉通りに、その時の時代によってこの「蛍の光」は3通りに歌われていたんですね。この「蛍の光」も「仰げば尊し」の歌詞には、ともに東晋の故事、即ち、(中国春秋時代の12列国の一つである)晋の車胤(しゃいん)が蛍を集めてその光で書を読み、孫康(そんこう)が雪を積んでその明りで書を読んだという故事「蛍雪の功」に学び、取り入れているのです。明治の音楽教育は伊沢修二氏を抜きに語れませんが、その伊沢氏が台湾で最初の小学校である芝山巌学堂(現・士林国小)の創立者として台湾の教育に深くかかわっていたことを考えると、この2曲の新たな側面が見えるのではないでしょうか。

このメルマガでは戦前の台湾で生まれ育った吉田先生の「少年時代の思い出画集」を紹介しておりますが、戦前の台湾で学んだ学校の思い出の中に卒業式に関する絵と文がありますので皆さんに紹介したいと思います。また、ここ台中日本人学校(以下台中校と呼ぶ)での卒業式は今日(28日)ですが、卒業式には台中校オリジナルの歌が歌われています。終戦から半世紀を過ぎた今と昔の卒業式で歌われた歌がどんな歌なのかを含めて見てみましょう。

-----台湾で生まれ育った湾生の少年時代の思い出画集より--------------------
◆清水小の卒業式(絵と文:吉田道夫先生)
絵は下記のアドレスをクリックすればご覧いただけます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou.html

昭和9年3月上の組の卒業式があり、6年生が巣立ってゆくことになった。これまでの学校と異なり、人数も少なく、こじんまりした式場で、しかも晴れ晴れしくつつましい卒業式であった。 卒業式の歌がまたこれまでの学校と変わっていた。台中でも彰化でも「蛍の光」「仰げば尊し」であったが清水小は全然異なっていた。

卒業式の歌
(在校生) 年月めぐ巡りてはやここに 卒業証書受くる身と
      なりぬる君ら等が嬉しさは そもそも何にかたと例うべき
(卒業生) われ我ら等はこれよりいや深き 学びの道や なりわいを
      勉め励みてみめぐ御恵みに   むく報いまつらん今日よりも
(全校生) 朝夕親しくなりわいし  嬉しき思いさながらに
      別れてゆくとてへだ隔つとも 互いに忘れじ忘れまじ

卒業生を送り出しやがて、三学期終了
清水小では送辞答辞はなかったようだが--------?           

ここ台中校の生徒数は小中学部あわせて110名前後しかいません。それで中学部の卒業式は(今年は12名ですが)毎年10名弱で、ある年はたった2、3名だけということもあります。
(以下飯野聡先生提供「福爾摩莎」P211より抜粋。)

しかし小学部の児童を含め、台中校全員で卒業生の門出を祝う卒業式は、少人数の台中校でしかできない心温まるすばらしい卒業式で、この素晴らしい卒業式に更に心がこもるものがあります。それは台中校オリジナルの卒業式の式歌です。中でも平成4年度の卒業式は2名だけでしたが、担任の先生と生徒が練りに練って作詞し、2名の卒業生が今までのことを思い出しながら歌うオリジナルの「卒業」の歌は、式に参加した大勢の保護者や来賓の人たちに大きな感動を与えたのです。

平成4年度・中学部卒業式
式歌「卒業」               

1 喜びと悲しみが とけあう今
  鮮やかに思い出が 浮かび上がる
  別れるのは辛いけど 心一つさ
  いつも優しかった 君にありがとう
  さあ力強く はばたいてゆけ
  ああ夢を刻む 大空に輝け

2 登ってきた階段を 振り返ると
  数えきれぬ微笑が 語りかける
  この大きな愛に包まれ 生きてきたから
  どんな嵐の海も 漕ぎ出せるさ強く
  ああ忘れないよ 輝いた時を
  ああ忘れないよ 美しい思い出

3 大人のドア開けていく 思い出焼き付け
  溢れる涙拭い 今別れゆく
  ああヤシの木陰 机の落書きよ
  また会う日まで
  さようなら さようなら

皆さんの卒業式の時どんな歌を歌いましたか?では、また次号をお楽しみに。


28. 蛍の光

2月、3月は日本では卒業式のシーズンで、「仰げば尊し」と「蛍の光」の歌は卒業式の定番の歌になっていました。(注:台湾では新学期は9月からなので夏休みの前の6月が卒業の時期です。)でも、台湾ではいまなお学校によっては卒業式に--「仰げば尊し」は「畢業歌」(畢業は卒業の意味)として、「蛍の光」は「驪歌」(りか)と題され---歌われているのです。中国語の歌詞で聞くこれらの歌はなかなかグーですよ。以前、台中会(台日交流聯誼会)の会合で、台湾の人たちから「中国語」でこの2曲を歌ってもらったらとても気に入ってアンコールしてまた歌ってもらったのです。日本と台湾が同じ曲を歌っていたなんて思いも寄らなかったでしょう?本当に台湾と日本とは密接な関係があるんですよね。

台湾の人たちは「蛍の光」の曲を聞くと「悲しくなって涙が出てくる。」と言う人が少なくありません。その人たちにとって、この曲は単に卒業式の時の歌ではないのです。ぼくは、「蛍の光」と言えば、卒業式に歌われる歌だとばかり思っていました。でも、ここ台湾では学校だけでなく、葬式の時も別れの曲として「星影のワルツ」などと共にこの曲が演奏されるのです。だから、この曲を聴いて涙が出てくるのは、失った肉親に最後の別れを告げた告別式の時のことを真っ先に思い起こしたからなのです。よく考えてみると、人生における卒業ですからこの歌を演奏しても不思議じゃないですよね。

ところで、この「蛍の光」に4番までの歌詞があったのを知っていますか。四番が「台湾のはても樺太も」となっていたのです。しかし昭和20年8月の終戦により、その講和条約で台湾及び樺太・千島領有を放棄し、三番と四番は歌われなくなったのです。では(その歌われなくなった部分を含めた)全部の歌詞を紹介しましょう。

1 蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)よむ月日かさねつつ
  いつしか年もすぎのとを
  あけてぞ今朝は別れゆく
 
    2 とまるも行くも限りとて
      かたみにおもふちよろづの
      心のはしを人ごとに
      幸(さき)くとばかりうたふなり

            3、つくしのきはみみちの奥      
             海山とほくへだつとも         
             その真心はへだてなく         
              ひとつにつくせ国のため        

                4 台湾のはても樺太も
                  やしまのうちのまもりなり
                  いたらん国にいくさをしく
                  つとめよわがせつつがなく

卒業式と言えば日本と違う点は台湾の卒業式は暗いイメージがなく、「明るい」という言葉がピッタリ。以前商業高校で日本語を教えていた時、卒業式の日に教え子が言った言葉がいまも強烈に残っています。「先生、有難うございました。(私たち今日で卒業だから)もう日本語使う機会がないので先生に日本語全部返しますよ。」

その言葉がいつまでも残っていて「いままで一生懸命日本語を勉強しても、(これまで勉強に費やしたお金や時間や努力を)途中で放棄するのはもったいないじゃないの」と日本語の学生さん(社会人)に呼びかけ、日本語を話す機会と場や日本語を話す相手を提供するからと、言って「日本語聯誼会(台中会の前身)」を6年前に結成したのです。


27. 元宵節

14日は「バレンタインデー」で、台湾では「西洋情人節」と呼ばれています。情人とは恋人のことで、本来の恋人の日(情人節)は7月7日(七夕)なので、「西洋」の2文字を頭にかぶせているのです。日本では女性から男性にプレゼントする日なんですが、台湾ではもらうのはいつも女性側だけ。だから日本のように義理チョコを女性社員が同僚の男性社員にあげる習慣なんてありません。台湾男性は恋人のためにチョコレートだけでなく花をあげたり、アクセサリー用品をあげたりするのです。ある台湾男性はこうつぶやいていました。「今度生まれてくる時は、女性がいいなあ。それも楊貴妃のような美女だったら最高!」これは、世の男性古今東西に共通する願望かもしれませんね。

旧暦の1月15日の今日は、いわば正月の第2ラウンドとも言える、一年ではじめての満月の夜を迎える日の「元宵節」です。中国人は、その晩、天の精霊が空を飛び回っているのをみることができると信じて来ました。雲や霧が出ていても、精霊が見つけやすいように、人々はこの夜に松明を燃やしたのが始まりだそうです。時が経るに従い、松明がランタン(提灯)にとって代わるようになり、一昔前までは、子供たちが手作りの提灯をさげて町を練り歩いていたそうです。1990年から「台湾燈節(ランタン祭り)が台北を中心に開催されてきましたが、今年は会場を台中に移し今月8日より始まりました。皆さんは青森の「ねぶた祭り」をご存じですか。地元の郷土色を生かして伝統文化に現代の科学技術を取り入れた一大イベントと考えてください。今年の干支の動物である羊などを形どったさまざまなランタンが飾られ、水面に浮かんだ二つの三角形の屋根の建物がレザー光線で浮かび上がり、音楽にあわせて噴水がダンスし始めたのです。この日はあいにくの小雨模様でしたが台中公園でのOPENはまさに幻想的な気分が味わえました。ここの台中公園では23日まで祭りを行っていて、また今夜から「経国大道」と呼ばれている別の会場でもランタン祭りが始まります。こちらの会場では今日と明日は北海道から来る「YOSAKOIソーラン」のチームが踊りを市民に披露することになっています。なお、興味のある人は下記サイトを参考にして下さい。
http://202.39.225.132/jsp/Jap/html/news_event/events_content.jsp?id=250

平安を祈るランタン祭りは、各地で特色のある行事が行われますが、台北県の平渓で行われているランタン祭りは 「放天燈」として特に有名です。一度この祭りをみたらきっとランタンの虜になりますよ。とっぷりと日が暮れた中,手に手に提灯(電池仕掛け)を持った子供たちや大人たちが広場に集まってくるのです。直径1mはある紙製のミニ気球状の表に,祈りの文句と自分の名前を書き,気球の下部に括り付けられた紙束に火をつけると、熱気で折り畳まれていた気球が大きく膨らんでいって、あっという間に空に浮き,見る見る暗い夜空に吸い込まれ小さくなっていくのです。後から後から,絶えることなく人々の祈りを乗せた天燈が夜空に舞い上がり、たくさんの煌く星になる様は,見上げる人たちの胸を熱くしないわけにはいきません。 このほか、春節を締めくくる「燈節」が台湾各地で行われているのです。

台湾では全ての行事に,謂れや由来・昔話があり,興味の湧く話ばかりです。自然の中で生かされていることに感謝しつつ,自然と共に心豊かに平和に生きようとした先人の知恵や願いが溢れているのです。日本でもかっては七夕やお月見などの行事などがありましたが、いまではほとんど生活の中から失われているようです。こうした行事の伝統を受け継ぎ大切にすることは即ち,先人の心を受け継ぐことに等しいと思います。時代がどのように変わろうとも人間の気持ちは変わらないのではないでしょうか。同じ文化の流れを汲む日本では廃れて行くものばかりで、それは心の荒廃をも意味するのかもしれませんね。文明が進み,便利で合理的なものがもてはやされる中で尚,心の拠り所を失わない台湾の人々の方が「日本人よりもはるかに心が豊かで幸せな生き方をしているなあ。」と思っているのは、ぼくだけでしょうか。


26. 神社掃除

正月に初詣に行く場所は神社仏閣ですが、台湾にも神社があったのを知っていますか?台湾に来た事のある人なら誰でも知っている台北の圓山ホテル----実はここは台湾神社があったところなんですよ。また台中公園も歴史のある公園ですが、この公園の中に台中神社があるのを知っている現地の人も意外と少ないのです。今年の春節(旧正月)は礁渓温泉(宜蘭)に行って、ついでに近くにある圓山公園に行って来ました。というのは、この公園の中に日本時代から残っている神社があると聞いていたからです。神社といえば鳥居や灯篭そして狛犬がつきものですが、(写真は下記の絵とともにご覧下さい。)この公園には見事にそれらが残っているばかりでなく、当時の様子の写真が説明つきで展示されていたのには驚きました。戦前の台湾は天皇民化政策の下、各地に神社が作られていたことがよくわかりました。このメルマガでは戦前台湾で生まれ育った吉田先生の画集を紹介していますが、少年時代を彰化で過ごしたことのある先生は、現在の八卦山公園が当時は神社であり、ここの神社を当番で掃除したことを絵と文で残していましたので、紹介します。

● 神社清掃(絵と文:吉田道夫)
下記の文の絵と宜蘭神社の写真はこちらから↓
台中会Website
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou.html

当時、小学校では、児童会活動の中で、学級の行う、学級自治会の他に全校生徒を地域別に別れて開く組別自治会、それに学級の級長、副級長等が集まって開く自治役員会というのがあった。昭和の戦時体制に入る前(昭和初期のこと)大正デモクラシーの名残ともいえる、小学校における自治活動であった。

組別自治会は町内を東門、西門、南門、北門という四地域?に分けて、それぞれ地域別の子供会(自治会)が開かれた。我々郡役所官舎(一般の人は新宿舎とよんでいた)の子供たちは東門の地域に席をおいた。その自治会で毎週日曜日の朝当番をつくって彰化神社の清掃作業をすることがきまった。三週に一回ぐらい当番(掃除)がまわってきた。その日は、兄弟で朝早く起きて駆け足で神社へ行き、上の方から階段に落ちている木の葉やごみを掃き清めた。

神社は階段が120〜130段くらいあったように記憶している。掃除が済むと道具を片付けて、神主さん(畑忠太郎さんという白髪の方)の家に行き、縁側においてある出席ノートに○印をつけて帰った。ときどき神主さんから神前にお供えした物(らくがん)をいただいた。又学校でいただく鉛筆と同じ物を1〜2本いただいたが、その鉛筆には「孝は百行のもと」という言葉が刻まれていた印象を今でも忘れない。


25. もうすぐ春節!(台湾の正月:今年は2月1日)

●暮れから春節の間の台湾歳時記
今台湾は年の暮れ。街には朱色の春聯や剪紙やお年玉用の紅封筒を売る屋台があちらこちらで見られます。そして魚(余裕)、馬啼銀(蓄財)などのプラスチック製の正月の縁起物が店先に並べられ、街中は正月を迎える準備でおおわらわ。そして各家庭では日本と同様に家族総出で大掃除をして、大掃除の終えた家庭の玄関や部屋の壁に、赤い紙に「春」の字をさかさまにして貼るのです。どうしてわざと逆さまに貼るのか?って。それにはわけがあるんです。それは、春が「来た」の意味の「到」と「さかさま」の意味の「倒」の発音が同じからで、逆さまにしないと、春が来ないからなんですよ。除夕(大晦日の意味)には都会で一人暮らししている人も家に帰り、夜は家族団欒で食卓を囲むのです。そして食事の済んだ後、子供たちには、待ちに待った紅包(お年玉)が渡されるのです。

そして、午前〇時になると除夜の鐘ならぬ「爆竹」の音が町中にパンパンと鳴り響くのです。もちろん新年を待ち切れない人は〇時前からもう鳴らしているのです。そして、この音は一時間あまりも鳴り響くのですから、にぎやかというよりうるさいと言ったほうが適切かもしれません。日本の静かな年明けとは対照的ですね。でも、これで驚いてはいけません。なんと元旦の早朝も自分の家にある神様、仏様に礼拝した後、また爆竹を鳴らすのですからたまりません。一番の被害者は赤ちゃんでしょう。熟睡している時、突然の爆竹の音で起こされ、そのあとは怖くて一晩中眠れないからです。元日の朝は人と会った時に、お互いに「コンシィ、コンシィ」と新年のあいさつを交わします。また日本と同じ様に、寺廟は初詣客でごったがえします。ここでは、誰もが赤くて長い中国式線香を両手で持って参拝しています。もしチャンスがあれば、台湾(台中)に来た時に、現地の人達のまねをしながら一緒にお参りしてみませんか。ある人から「台湾でも餅を食べるんですか?」と聞かれました。皆さんはどう思いますか?答えは「YES」です。でも台湾のお餅はちょっと日本と違って、お餅のなかに具が入っていて味つきなんですよ。

正月二日は「回娘家」つまり既婚女性の里帰りの日で、子供と夫婦そろって妻の実家でごちそうのもてなしを受けるのです。しかし、最近ではこの習慣もだいぶ薄らいできたような感じがします。*中国語の「娘」は日本語のむすめの意味ではなく母の意味です。そして面白いのは自分の妻は「老婆」なんです。若いのに「老婆」だって? 冗談じゃないよ。全く。

三日目は古い習慣では外出禁止の日になっていますが、新人類にとっては関係なしです。「もう、じっとしていられない」と言うヤングで、年中無休の映画館やゲームセンターなどは大にぎわい。また、各地の行楽地や公園なども親子連れや若いカップルで黒山の人だかり。だから、どこへ行っても、人、人、人、車、車、車だらけ。台湾も日本と同じなんですよ。やっぱり、ぼくのように寝正月が一番賢明のようです。

四日は天にもどった「かまど」の神様が下界にお帰りになる接神の日で、五日が「松明」になり、各商店はごちそうを作って、爆竹を鳴らしながら店開きするのです。もっとも、この日以前から営業している店も新年最初の店開きには、必ず爆竹を鳴らすのです。だから、正月は毎日爆竹が鳴っているのです。爆竹はまさに春節の代名詞と言っても過言ではありません。去年初めて春節を体験した日本人は、その時の様子をまるで戦争で爆撃を受けたようだったと日本の家族に教えたそうです。でも、日本人にとってはうるさくてたまらない音も台湾の人達にとっては景気のいい音に聞こえるんだそうですよ。


24. 台湾の正月(民族衣装)

だんだん旧正月が近づいてきて、街中が忙しくなってきたような気がします。商店街や、デパートなどには朱色の正月関連用品や贈答品などが所狭しと並べられ年の暮れを日毎に感じさせます。今日(18日)は旧暦の12月16日で、この日は古くから台湾では「尾牙(ウエヤー)」と呼ばれています。牙とは歯、即ち一年最後の「歯の祭り」です。(旧暦の毎月2日と16日は「歯の祭り」と言われ、昔から普段より少し良いものを食べる習慣がありました。)12月は一年最後の歯の日ですから、特に盛大にご馳走を振舞うのです。これが「尾牙」すなわち忘年会の原点なのです。今では日にちにはこだわりませんが、会社の老板(ラオバン:経営者の意味)が従業員にご馳走するという形で伝統が今に伝えられています。かってこの忘年会は「解雇通告の場」として利用されたとか。テーブルに次々にさまざまな料理が運ばれ、鶏を丸ごと料理した皿が運ばれた時は、みんなは緊張するのです。それは、老板はやめさせたい従業員の方に鶏の頭を向けるようにして皿を置かせるからなんです。頭が自分の方へ向いたらもうおしまい。それは明日から出社に及ばずと言う印なのです。ああ、よかったなあ。その時分に台湾で働いていなくて。出勤時間スレスレに出社し、勤務時間中はよく模魚(サボるの意味)し、終了ベルと同時に脱兎のごとく退勤する人にとって毎年の「尾牙」は針のムシロだったかも知れませんね。
 
さて12月24日になると(かまど)の神様が天に帰る日とされています。この神様は一年間家族に起こった出来事を一つ残さず上司に報告するので、身に疚しい事を持っている人にとって戦々恐々。その家庭に向こう一年間家庭の中にさまざまな不幸が訪れるのです。だからこの神様が天に行う報告を大目に見てもらうために、或いは彼の口を糊で封じてしまうために神様にご馳走を捧げ、線香をたきお札を燃やしお祈りをするのです。こうした習慣は今でも地方に残っているようです。こうやって年末も残り少なくなった頃、うるさい神様が家の中にいなくなったのを見計らって、家具を動かしたり大掃除をしたりする事が出来るという訳。先日、知人の家に行ったら客間の壁にいい言葉がありましたよ。「善をなすものには幸せが近づき、悪をなすものには災いが近づいて来る」と。(けだし名言!!)戦前の日本統治下での台湾の正月は果たして新暦だったのでしょうか?それとも旧暦だったのでしょうか。その辺あたりの事情を戦前台湾で生まれ育った吉田先生の記憶想像画集で見てみましょう。

●台湾の正月(絵と文:吉田道夫)
下記の文の絵を見る↓
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou3.html/
日本人の正月は新暦の一月で行っていたが、台湾人は公的な正月行事は日本人のそれに合わせてやっていたものの家庭における正月は旧暦で行うのが通例であった。旧正月には台湾餅(ティコエ)をつくり、神(祖先)へお供えし、ご馳走を作って祝い、晴れ着(支那服と言っていた)に着替えて町に出て、廟にお参りをして、そのあと一日中楽しく町を徘徊して歩いたり、友人宅を訪問してお正月を楽しんだ。町には芝居や出店等いろいろ催しものがあり、結構賑わった。

●今年からこのメルマガを購読された方のために吉田先生についてちょっとお話ししたいと思います。先生は大正11年(1922)台中州員林街(現在の彰化県員林鎮)で生まれ、23歳まで中部台湾で過ごし、終戦後大分に引揚げ上げ教員生活を送りました。その後半世紀を経て小学校時代の同窓会が開かれるのを機に、50数年前の少年時代の思い出をボールペン、筆、墨汁などで濃淡を表し、12年間の歳月をかけて思いつくまま(説明文を加えて)100枚前後の絵を描いたのです。その先生の記憶力のすごさに敬服すると同時にまるで、その現場で見て描いたかのようなリアルで繊細な描写は当時の様子をタイムマシンで見ているようであり、日本統治時代を生き抜いてきた人たちには遠く過ぎ去った昔の台湾を思い出させてくれる格好の画集なのです。先生の描かれた画集は1冊の本として、台中会より2001年末に刊行されたのですが、先生は既に同年3月に帰らぬ人となっておりおりました。それで、先生の一周忌の命日にこの本はご霊前に捧げられたのです。(なお、下記アドレスをクッリクすればついての詳細を知ることができます。)
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gashu.html/


23. 台湾の正月に関するクイズ

知っているようで知らない台湾。
第1問 台湾の正月(元旦)は2回ある。
YES、 (出題者の意図)日本人にとって お正月は新暦と旧暦の2回あります。

第2問 台湾では普通の会社は大晦日から休みになる。
これも大晦日をどうとらえるかで見解がわかれます。日本で言う大晦日は通常モードです。 旧暦のほうだと、大晦日(台湾では「除夕」と言う)から休みです。(出題者の意図は、台湾では旧暦採用なのでこの答えはYES)

第3問 台湾では大晦日のNHK紅白歌合戦が見られる?それから除夜の鐘も鳴る?
前の質問に対してはYES、 ケーブルテレビでNHKが見られます。あとの質問の答えはNO、台湾では除夜の鐘は鳴らず、爆竹を鳴らします。

第4問  台湾でも日本同様年賀状を出す習慣がある。
NO 一般的に年賀状を出す習慣がありません。でも、旧正月に出しても構いません。

第5問 台湾では正月だけでなくよく廟やお寺におまいりに行く。
YES 台湾人は年がら年中お参りしています。ロトくじを買ってあたるように廟に「拝拝」を済ませ帰る途中クルマに当たってけがをした人もいるそうですよ。

第6問 台湾では正月前にお年玉をあげる。
YES 「紅包」は大晦日の夜家族全員食事が終った後あげるのです。

第7問 台湾ではお年玉は日本同様奇数にするのが原則だ。
NO、お年玉に限らずおめでたい時は偶数にします。

第8問 台湾の正月は日本同様静かだ。
NO、日本とは大違い。12時を過ぎたら正月は爆竹とともにやって来て、賑やかを通り越して爆竹のきらいな人にとっては「うるさい」正月です。でも「台北」は例外。多くの人々は故郷に帰ってしまい、とても静かです。

第9問 台湾では正月前に挙式を済ませるカップルが多い。
YES、台湾の諺に「お金があってもなくても結婚してよい正月を迎えよう」と言われており、奥さんがいれば暖かい正月が過ごせるでしょう?

第10問「お正月」の歌で歌われている「たこあげ」や「こままわし」の遊びは 日本だけだ。
NO、台湾でも、たこあげもこままわしもやりますよ。特に、たこあげは大きな公園などでよく見られます。こまもとっても大きなこまがあるんですよ。

第11問 台湾では、正月の間、部屋掃除してはいけない。
YES、掃除をするとゴミと一緒に「福」も出てしまうからだそうです。「外に向かって掃きだすこと」がいけないのであって、ぞうきんがけやガラスふきはOKです。あと、ほうきではいても「掃き出さない」で、「掃きいれれば(掃進来)」いいとのことです。

第12問 台湾でも正月用の餅がある。
YES、台湾ではネンガオと呼ばれている。

第13問 台湾では、玄関の左右に「春」とか「福」の字を書いた赤い紙を逆さに 張るのが正しいやり方だ。
YES さかさまにする「倒」と到着するの「到」が同じだから、「春が来る」「福が来る」という意味になります。

第14問  日本でも、台湾でも正月気分が抜けるのは約一週間だ。
NO、台湾ではお正月行事は小正月(旧暦1月15日)まで続くのです。

第15問  台湾では年始によく「お金がもうかるように」とお互いにあいさつする?
YES、台湾の新年のあいさつは「新年快楽、恭喜発財、紅包拿来(笑)」なんです。


22. お茶の話

ここは「茶藝館」と呼ばれている所で、台湾の人々がよく友達と歓談するのに利用されています。ここでは、時間を気にせずゆっくりした気分で、誰もが、お茶を飲んでいるのです。となりの客がおもしろい話をしていたので耳をそばだてて聞きました。
「ねえ、君。人類はいつからお茶を飲むようになったと思う?」
「そんな事、考えたことないよ。」
「だいたい何年前だと思う?」
「じゃ、二・三千年前かな。」
「ちがうよ。起源は紀元前16世紀から11世紀にさかのぼるんだって。」
「へえ。すごいね。よくそんなこと知ってるね。それじゃ、どうしてお茶と呼ばれるようになったのか、知っているかい。」
「えっ? 君はそんなこと知っているの?」
「お茶の起源に関して面白い中国の神話があるんだよ。知りたい?」
「そんなに、もったいぶらないで教えてよ。」
「むかし、むかし、神農氏という農業の神様がいたんだって。この神様は腹の皮が透明になっていてね。どんな風に食べたものが消化されていくのか一目でわかるんだって。それで、彼はいろいろな植物を食べまくって、毒のあるものとないものとに人間のために分類してあげようと考えたんだよ。」
「ツラの皮が厚い人は多いけど、腹の皮が透明だなんて聞いたことがないよなあ。全く。」
「おい、黙って聞いてよ。すぐ茶茶いれるんだから。お前は。」
「ごめん。それでその神様はどうしたんだい。」
「ある日、彼は一枚の木の葉を食べたんだって。するとね、この葉は胃に入ると、下に行ったり上に行ったりして、ぐるぐる回ったんだって。まるで胃の中を検査しているかのようにね。」
「おもしろい! じゃ、その木の葉は何なの?」
「うん、その時はその木の葉の正体がわからなくてね。それでさらに植物を食べ続けていると、今度はある植物の毒に当たってしまったんだって。」
「それで、神様はどうした訳?」
「やっぱり、神様は頭がいいよね。そこで神様は以前食べたことのある木の葉を思い出して、また食べてみたんだよ。すると、木の葉はまた胃の 中でぐるぐる回り、毒をすっかり消してしまったんだって。」
「へえ、すごいね。その木の葉は。」
「神様はね。だから、胃の中を検査するというので、この解毒作用のある木の葉の名前に『査』という名前をつけたんだよ。」
「わかったぞ。それで、いつのまにか『査』が『茶』になってしまったんだな。発音が似ているから。」
「そうなんだよ。どうだい。おもしろい話しだろう?」
「そう言えば、お前。日本語でも検査の査と喫茶店の茶は同じ発音だな。これは偶然の一致かなあ。」


21. ツァイポウ作り

台湾で「大根もち」を食べた事がありますか。朝ご飯の時や、お酒を飲んだあと食べたりまたは旧正月の時も食卓によく出されます。またこの大根は細かく刻んでお粥のおかずとしても出されます。かって、ぼくの田舎でも軒先に大根干が吊るされ、「ああもうすぐ寒い冬がやって来るんだなあ」と子供心に思ったものでした。あの時の原風景は未だに忘れられません。大根の漬物は冬の貴重な食べ物で、田舎ではお茶とともにお茶菓子かわりに自家製の沢庵を来客に出していたのを覚えています。台湾だったら開水(一度沸騰させた水)をお客さんに出すようなものです。 少年時代を台湾で過ごした吉田先生はきっと「ツァイポウ(沢庵)作り」が強烈な印象となって深く刻み込まれていたのでしょう。それでは、先生の文を紹介します。

ツァイポウ作り
秋から冬にかけて、大根の収穫が終ると、その大根を小屋の屋根や竹製の干笊(ほしざる)のような物の上において干す。何日ぐらい干すのか、生干(なまぼ)しになった大根、やわらかい大根を集めて大きな壺の中に入れ、塩をふって、足でふみこむのである。そのとき、裸足(はだし)のままふみ込むものだから、土がついて大根は褐色(土色)に変色してしまう。何日かねかせておいて再び天日に干す。それを再度壺の中にねかせておくと塩が大根にしみこんで何ともいえない味わいの漬物となる。こうして出来たのがツァイポウであり、私の母などはこれが大好物であった。これを味噌漬にするものもいる。私はこれを作るのを見ていたので、どうしても食べて見たいという気にはなれなかった。


20. カトウキャクは下等客?

日本語の学生さんの中の一人、楊さんと言う人は小学校3年まで日本教育を受け、最近までは交通局に勤めていました。彼から日本時代当時の台湾の様子を聞くと、時間が立つのを忘れるほど面白い話をしてくれるのです。今日は彼が書いた作文を紹介しましょう。

カトウキャク
私がこれから書く事は約五年前の「聯合報」と言う新聞に掲載された事実なんです。その記事の内容は台湾鉄道の名前の由来についてでした。彰化県に「花壇」と言う駅があります。およそ七、八〇年前台湾はまだ日本の植民地で、当時は「茄苳脚」駅と呼ばれていました。ある日の事でした。ある日本人の高級官吏が汽車に乗って、台北から高雄に行く途中、この駅に着いた時、駅員は大きな声で「茄苳脚、茄苳脚です。」とスピーカーでアナンスしました。その時、彼はこのアナンスを聞いて、てっきり自分を侮辱していると勘違いして、カンカンに怒って駅員を呼んでこう言ったのです。
「貴様、どうしてわしを下等客と呼んだのだ。わしは上等客だぞ。」すると、駅員は
「私は、ただここの駅名『茄苳脚』とお客さんに知らせただけですよ。」と答えたのです。

かの高級官吏は「茄苳脚」を「下等客」と早とちりしたわけです。自分が誤解していたことに気が付いた彼は
「しからば、茄苳は台湾語で何と言うのだ。」と、さらに聞くと
「茄苳です。」と駅員は答えました。
それ以来「茄苳脚」駅は「花壇」駅に変わってしまったのです。以上の話は事実かどうかは問題ではありません。ただ、私は駅名にまつわる面白い話として皆さんに紹介したかっただけなのです。


19. 「嘉南大しんの父」---八田與一

前台湾総統・李登輝氏は八田與一の業績を以下の様に称えています。 台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、日本人の多くはご存知ないでしょうが、嘉南地方に大正9年から10年間かけて作り上げた 八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。 台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給排水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊 かにした人です。

八田技師は明治19年(1886年)石川県金沢で生まれ、東大で土木工学を学び、 明治43年(1910年)に25歳で卒業と同時に台湾総督府土木局に赴任しました。当時の台湾は清の時代においては「毛外の地」と言われ、人が住めるような所でない辺境の地で、また流刑地だったような所でした。道路、水道、電気などの公共設備は、全くと言っていいほど整っていなかったのです。その台湾に、当時東洋一と言われた巨大ダムを建設し、多くの台湾の人々に計り知れない利益をもたらしたのです。水利事業というものは、食糧に直結することだけに、国の重要な事業なのです。八田技師が構想したダム建設に伴う大規模な灌漑水利工事は、当時の日本国内でも前例がないほど巨大なものでした。完成したときには、アメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界を驚かせたそうです。八田技師が構想したダム建設のために、鉄道が敷かれ、道路が建設され、技術者の家族の住む宿舎や、病院、倉庫、工場、その他数多くのものが建設されました。大工事を進めていく上で、数多くの困難もありました。しかし、それらの困難を次々に克服し、大正9年(1920年)から始まった工事は、10年の歳月と五千四百余万円の巨額の工事費を費やし、ついに昭和5年(1930年)の43歳の時にダムが完成したのです。

ダムの完成により、それまで一面不毛の荒れ野だった嘉南平野が潤い、台湾の全農地の6分の1にあたる15万ヘクタールが豊かな農地になったのです。戦争中の昭和17年、新たな灌漑を命じられた八田技師は、船でフィリピンに向かおうとしていた時、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃によって船が沈没、八田技師は帰らぬ人となりました。 享年56歳でした。そして妻の外代樹(そとよ)夫人は、終戦の2週間後に、夫が精魂込めて作り上げたダムの放水路に身を投げ、自らの命を絶ってしまったのです。45歳という若さでした。夫人は八田技師と同じ金沢の生まれで、16歳で八田技師の許に嫁ぎ、陰に陽に八田技師を助け子供を育ててきて、台湾を終生の地と考えていたのかもしれません。 嘉南の人々は二人の遺徳を偲び、翌昭和21年12月25日烏山頭ダムに八田夫婦のお墓を建てたのです。昭和6年(1931年)八田技師の功績を永久に記念するため地元の人によって彼の銅像が建立されましたが、戦争末期には金属供出に合うのを避けるために隠され、また戦後国民党支配下で他の日本人の銅像や碑の類が次々と破壊されていく時勢にあって、八田技師の銅像を残す事は非常な危険を抱え込むことであったが、烏山頭管理事務所はこっそりと保管したのです。そしてその銅像が再び人々の前に現れたのは昭和56年(1981)1月のことでした。このエピソードはいかに八田技師が嘉南の人々に慕われていたのかをよく表しています。嘉南平野に張り巡らされた給排水路と烏山頭ダムを総称して「嘉南大しん(土へんに川の字)」と言い、そこから彼は現地の人々に「嘉南大しんの父」と慕われているのです。このダムを見下ろすように日本式の墓の前に立っています。

そして墓の出来た翌年の昭和22年(1947)5月8日(彼の命日)から、これまで一度も欠かすことなく水利組合の役員をはじめ、農民たちによって八田技師の慰霊追悼式を行なわれているのです。また八田技師の業績及び人徳をたたえ後世に伝えるための「八田技師記念室」が命日にあわせて平成13年(2001年)に開設されたのです。台湾の歴史教科書「認識台湾」にも載っている八田技師は心底から台湾を愛し、台湾で最も愛されている日本人なのです。

(追記)李登輝前総統が本来慶応大学で講演するはずであった内容が11月19日付けの産経新聞に掲載されました。「八田與一に見る日本精神」についてのこの講演内容は本当に素晴らしい内容で是非多くの人に読んでいただきたいものです。台湾に住んでいる皆さんの中で、希望者の方には切抜きのコピーを分けてあげますので、その旨メール下さい。


18. 靴磨きのおじさん

数年前高雄へ行った時のことです。あの事は今もなお鮮明に覚えています。それは高雄駅での出来事でした。駅の構内でぼくは靴磨きのおじさんを見掛けたんです。東京に住んでいた時、新宿駅前の歩道でよく見掛けたことがありましたが、駅の構内では赤帽も靴磨きのおじさんも姿を消してしまってからもう久しいので、懐かしい感じがしました。

「おじさん、いくら?」と聞こうとすると、なんとすぐ目の前にダンボールの切れ端に「一足100元」と書いてあるではありませんか。これは台湾元だから、日本円に換算すると約500円かとすばやく頭で計算して「おじさん、お願いします。」と、まず右足を台の上にのせました。かのおじさんは慣れた手つきで靴磨きを始め、終わると「お客さん、左足は?」と言うんです。変なことを聞く人だなと思って「もちろん、もう片方も頼みますよ。」と答えました。

しばらくして、おじさんは「はい、終わりましたよ。お客さん。」「ありがとう」ここまでの会話は、ごく自然な形で進んできたんです。でも、このあとの会話は本当に「一本とられた」と思いました。誤解はダンボールの看板から始まっていたのです。「じゃ、これ100元」と言って立ち去ろうとすると、おじさんは「お金たりないよ。200元だよ。」「どうして?いっそく100元でしょう。」おじさん曰く「あの字はいっそくじゃなく、一つの足と読むんだよ。二つ磨いたから200元。」「ずるいなぁ」と思っても、ここは外国、台湾。「同じ漢字でもこういう読み方ができたんだ」と半ば感心しつつ、財布からもう一枚の100元札を取りだし渡すと、おじさんはニコニコした顔で「どうもありがとう。」と言って、いとも無造作にお金を箱の中に入れたのでした。

あのおじさんは、今も日本人相手にずる賢く靴磨きの商売を続けているのでしょうか。機会があったら、また会ってみたいと思っています。


17. 轎(きょう)

昔から台湾にあった乗物。都市では儀式用として使われていたが、田舎では日頃交通機関として使われていたという。日本の殿様用のお籠のように重苦しくない。総竹作りで軽く通風もよろしく爽やかである。一度乗せてもらったが、歩く度にヒョイヒョイと揺れてリズム感があり心地よい。田舎では、お嫁さんや(纏足の)老婆が乗っているのを見かけた。花嫁行列の中でよくこのお籠(轎)のすぐ後にピンク色の大袋を擔った姿を見かけたが、これが花嫁専用の○○桶だそうで、ずいぶん後になってわかったことである。今日でいう移動トイレである。轎をかつぐ人も大てい年寄り(ラホヤァ)で、これも縁起ものだと聞かされたが、----深くは知らない。

轎のうた(童謡)
青いお屋根に赤い帯 石ころ道を揺れながら はだしの轎はゆきました。
チラリと覗いた花嫁は 頬をかくしてゆきました お籠の轎はゆきました。

絵はこちらから↓
  http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/dai4.html


16. 結婚(披露宴)

結婚披露宴になると、これまた日本とは大違い。大部分のお客さんは招待状の時間より遅れてくるし、帰りも最後に出るデサートを食べ終えたら適当な時間に帰ってしまうので、いつ始まったのか、いつ終わったのかわからないんです。普通はスピーチもありませんし、歌も歌いません。飲んだり、食べたりして、騒いでいると、そのうち新郎新婦が各テーブルを回ってきたら、彼らにお祝いの言葉を述べ、乾杯しあうのです。その後は、友人、知人を見付けると自由にテーブルを移動して、そこでまた同じように繰り返すのです。

そして披露宴の最後に新郎新婦にタバコや飴をもらって帰るだけですから、日本のように余計な神経を使わなくてもいいのです。べつに服装を気にすることもいりませんし、家族全員でも、招待状をもらわない人でも誰でもが参加でき「来る者は拒まず」なんです。テーブルは丸いテーブルですから、誰が上座ということはなく、また予定人数より多少増えてもテーブルの数を追加するだけですし、席も決められていませんし、引き出物の習慣もないので日本のように新郎新婦側が頭を悩ますことはないのです。

また、何回かのお化粧なおしやウエディグケーキカット、キャンドルサービス、双方の両親にお互いが花束贈呈とかいった日本での披露宴の一連の儀式は、ここ台湾ではあまり見られません。さらに、日本と違う点は、白いネクタイは忌み嫌われることです。台湾では白は葬式だけなんです。めでたい時はいつも紅色(赤)を用いるのです。まさに「所変われば、品かわる。」ですね。でも新郎新婦の門出を祝ってあげようとする気持ちはどこの国の人も変わりないのです。

旧正月前後はどこのホテルもレストランも、ただでさえ忙しいのに、結婚披露宴のお客さんが加わっててんてこ舞い。猫の手も借りたいとはこのことでしょう。当然「こんなに混雑するところで披露宴をするのはいやだ。もっと仲間内でゆっくりやりたい。」と考える人達がいます。彼らは、日本人には及びもつかない所で披露宴を行うのです。どこだと思いますか?以前の農業社会ではホテルやレストランなどで披露宴ができるのは一部の人達だけ。庶民の知恵から生み出された方法は最も安上がりで合理的な場所である家の前の庭や道路なんです。だから、庭や道路の片側を利用してテーブルを並べテントを張り、即席の会場を作って招待客を迎えるのです。台湾に来たことのある人の中には「私も冠婚葬祭に道路が利用されている光景を見た」と言う人がいるかも知れませんが、今はクルマ社会ですから、だんだん少なくなりつつあります。しかし都市部以外では、結婚に限らず、葬式の時もよく道路が占拠されているのが見られるのです。


15. 結婚

台湾では結婚は「縁 イ分」(にんべんに分:ふん)がないと結婚できないとよく言われています。いくら「縁」があっても、もう一つの「イ分」がないとダメだというのです。「イ分」とは赤い糸で結ばれている運命的なものといえるかもしれません。以前の農業社会の台湾では、二人が同じ名字の時、二人の間に三歳、六歳、九歳の年齢差があるとき、また、二人の姓名の字画数、生年月日から判断された「八字」の相性が合わないときは相思相愛の仲でも結婚できなかったのです。最近ではだいぶこれらの迷信を信じる人は少なくなってきたとは言え、まだまだ根強く残っているようです。

結婚の日取りは、日本ではたいてい暦の「大安」の日を選んで決める事が多いですが、台湾では、二人の「八字」を基に縁起のいい日時を決めるのです。そして、式の当日は新郎側は必ず偶数の台数のクルマで“新娘”(シンニャン:新婦の意味)を迎えに行かなければならないのです。二台では少ないし四台では縁起がよくないし、六台では多すぎるし、というので苦慮する人も少なくありません。挙式は新郎の家にある祭壇でする方法のほかに、台湾では公証結婚と言って、法院(裁判所)で済ませる人もいます。費用も安く簡単に挙げられて、結構人気があるんですよ。裁判官が証人になってくれるのですから、これ以上心強い証人はいません。法院の中に式場があり、ここであらかじめ申し込んだ人達が一緒に式を挙げるのです。ちなみにぼくも公証結婚だったんです。

挙式の時、日本だったら三三九度の盃をお互いに交わしますが、台湾では祭壇に設けられた神様などに対して三拝したあと結婚指輪を交換するのです。挙式が無事済んだあと、親は、“新娘”が新郎のクルマに乗る前に道路に水を撒くのです。そして、“新娘”の方も車中から外に扇子を放り投げるのです。それは挙式のクライマックスとも言える瞬間です。そして、それは元に戻らないことを意味する最後の別れを告げる儀式なんです。地上に落下するのを見届けた親も“新娘”も感慨無量。言葉は交わさなくてもお互いに気持ちはわかるのです。そうしているうちに、爆竹が鳴り響く中新婚カップルを乗せたクルマは一路新郎の家へ向かうのです。*台湾ではまず“新娘”の家の祭壇でお別れを告げ、新郎の家に着いたらこんどは祭壇で祖先に結婚の報告するのです。

新郎の家に着くと、これまた爆竹が鳴り響いて、車から降りた“新娘”の手に、お化粧した可愛い子供から「みかん二つ」手渡されるのです。これは、新郎新婦は今後一緒に「同甘同苦」を共にするからなんだそうです。そして、“新娘”は竹で編んだ丸いお盆のようなもの(または傘)を頭の上にかざ翳しながら新居に入るのです。これは悪魔が新娘の体に入り込まないようにする一種の魔除けなんです。そして、面白い事にこれを使えるのは初婚の時だけで、再婚の場合はだめなんだそうです。それで「ああこの人は再婚なんだ。」と隣、近所の人は察することができるのです。新居には結婚式に参加出来なかった人を中心に“新娘”の晴れ姿を見たい人が待っていて、この日一日“新娘”は新郎以上に気疲れするのです。
                          (つづく)


14. バナナ売りとラホヤー

ぼくらの小さい頃はバナナは高嶺の花。病気になると母がバナナを買って来て「おいしい物をたべて早く直るんだよ。」と言ってご馳走してくれたのです。あまりにもおいしさに仮病を使ってまたごちそうにあずかろうと思ったら、見抜かれてこっぴどく怒られたことがあります。飽食時代に育ったヤングからすれば想像できない事かと思いますが、あの時のバナナの味は今もなお忘れられません。今回はそのバナナ売りのラホヤーの話です。

● バナナ売りとラホヤー (絵と文:吉田道夫)
下記の文の絵はこちらから↓
 http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/dai4.html

よく見かける野菜、果物等を行商するラホヤー(年寄り)。必ずといっていい無精髭を生やし、一見ぶっきらぼうだが、どこか人間味のある真面目そうな爺さん。 天秤棒に一荷をかついだまま〜〜片言まじりの日本語で
「オッサーン(奥さんの意)菜っぱ、さといも、カボチャ、ホーレン草、筍、バサラミー(芭蕉の実の意、バナナのこと)安い〜いらんか?」
母の声「バナナいくらか?」売り言葉に買い言葉・・・以下二人のやりとりが続く
爺「これびんな二十銭やすいら〜」母「ホーウかっくい(高いの意)いらん」
爺「アーヨ、高い?負けるら」・・・間「おっさん十五銭ハオ好らあ」
母「高い高いボウアイ無愛(要らないの意味)」と家の中から母の声。
爺「おっさん何ぼするいいか?」母「みんなで十銭」
爺「アーヨ、十銭?それもうけない損らー」
母出て来て「損したらだめ、よそへ行って売りなさい。」母家の中に入る。
暫くラホヤー腰をおろし笠をぬいで扇ぎながらひとりごと(この家は子ども五人もいてバナナが欲しそうな顔してる、何とか粘れば必ず買ってくれる、粘りだ、粘りだ、とでもいっているかのよう)母は洗濯物の取り入れをしながら、チラッと玄関前を伺う風、
「おっさん、バナナ、これホーレン草、菜っぱつける十三銭いいら」と玄関におく、
母すかさず「ホーレン草、菜っぱいらない、これ十銭」といって十銭おく。
爺「ハハハ・・・おっさん負けた、ハオ好ら、ハオ好ら。」
十銭財布に入れてやおら立ち上がる。のんびりした商売だ。所要時間三〜四十分、えらいもんだ。この爺さんこのやり方で、当時十四〜五万ぐらい金を貯めていたとか。


13. 台車(トッロコ)

下記の文の絵はこちらから↓
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/dai4.html

当時、台湾には交通機関の一つに台車というのがあった。清水の町にもこの台車があった。 この台車、その主目的は、畑で収穫した砂糖きび(甘蔗)を製糖会社へ運ぶためのものだったようだ。 それをお客様運般にも活用していたというわけ。勿論、地方によっては、お客専用に運用していたものもあった。

小学校前を砂糖きび満載した車が五車輌ぐらい、沙鹿の方に向かってゆく光景に出食わしたことも度々あった。 お客を乗せた車が砂糖きび車に合うと、お客に降りてもらい、台車を線路から一時外して砂糖きびを優先的に通した後再び線路に戻して走るという。 お客を乗せた車同志がぶっつかった場合は、お客の少し方が線路から外す---というルールになっていたようだ。
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(あるお爺さんの証言)台車を運転する人(車夫と言う)は絵のようにノンビリと船を漕ぐようなわけにはいかないんだ。特に下り坂のときは、片手をブレーキ棒から放さず、いつでもブレーキをかけられるよう注意しなければならないんだよ。


12. 台湾チューインガム「檳榔」(ビンロウ)

バスを降りて大通りを歩いていると、急に前のクルマの窓が開き、助手席に乗っている人が赤い血を吐いたのです。びっくりして、立ち止まってよくそれを見ると血とはちがうものでした。これがビンロウとのはじめての出会いでした。ビンロウは台湾のチューインガムと呼ばれるもので、ビンロウの愛好者は約三〇〇万人いると言われています。

ビンロウには眠気を覚ましてスッキリさせる効果があり、トラックやタクシーの運転手の間に人気があります。しかし、タバコと同じように習慣性があり簡単にはやめられなくなるんだそうです。タバコを吸うとニコチンで歯の裏が黒くなると同様に、ビンロウも噛んでいると歯の表も裏も真っ赤になってしまうのです。だから、ビンロウを噛みながら話しているのをみていると、早くその人の前から逃げ出したくなるんです。だって口の中が真っ赤なので気持ちが悪くなるのは当たり前でしょう。日本人のぼくには、とてもビンロウを噛む気持ちにはなれません。

ビンロウは儲かると言うので、ほかの作物をやめてビンロウを植える農家が少なくありません。中部の観光名所で有名な日月潭と言う所に行く途中、ビンロウを販売する店が道路の両側に並んでいます。また周りの椰子の木、バナナ畑に混じって、そこかしこにビンロウの樹が青い空に向かってまっすぐに伸びていて、南国に来たんだということを実感させられます。ビンロウ樹は一本の木にたくさんの実をつけます。それで、昔は結婚披露宴に参加してくれた人達にビンロウの実も、お開きのときに配ったんだそうです。どうしてかって。それは、ビンロウ樹にあやかって、子宝に恵まれることを意味していたんだそうです。

ここで、みなさんに耳よりな情報、儲け話を教えます。ビンロウはタバコと違って販売しても税金がかからないそうです。そして、長期保存ができないので市販価格は季節によって全然違うのです。十一月ころが最も安く四個十元、五月から六月にかけては台湾産がほとんどなく、タイ・マレーシアなどからの外国産が出回りますが、これが味もまずくて値段は百元で三個ぐらいしか買えないのだそうです。もし、ビンロウの保存方法を開発し成功させればあなたは必ず世界の大富豪の仲間入りできますよ。

最後にビンロウに関する笑い話。皆さんの中にはビンロウと言えば、街道沿いに並んだガラスボックス型の売店。その中にいるまるでモデルのような超ミニ姿の若い女の子を思い出す人もいるかもしれません。その「檳榔小姐」と呼ばれるギャルとトラックの運転手さんとの会話です。檳榔小姐からビンロウを買って箱を開けた運転手は「おい小姐、この前買った時は五つ入っていたのに三つしかないぞ。」と怒鳴ったのです。すると、かの小姐は涼しい顔して、「お客さん、今ビンロウが高い時期なんです。それで2個少ない分はここ。」と言って自分の胸を指したのです。「バカ言え。そんなの食べられるか!」「いいえ、食べられるわよ。ここで見るだけならタダだけど、さわったり食べたかったら、でも別料金だわよーん。」おおアブナーイ。くわばら、くわばら。君子危うきに近寄らず。


11. 十元の買い物で二百万元もらえる?

まず、クイズを出しましょう。では問題を言います。
「台湾の人達は商店、スーパーなどで買い物した時のレシートを捨てるどころか、ためています。どうしてでしょうか。」
「えっ、ためているって、集めているんですか。」
「はい、集めているのです。なぜだと思いますか。」
「集めるとなんかいい事があるからじゃないの?」
「じゃ、いい事って、何ですか。」
「うーん、たとえば、一定の枚数になると何かもらえるとか……」
「君、なかなかいい線いってるね。もうちょっと、がんばって」
「ねえ、ヒント教えてくれない?」
「それでは、ひとつヒント。奇数月の二十五日になると、集めたレシートを取り出し、夕刊を見るのです。はい、どうしてだと思う?」
「わかったぞ。きっと何かがレシートの中に書いてあるんだろう?」
「そうです。もう少しで正解だよ。」
「そうだ、番号だ。レシートの番号が当たると何かもらえるんだろう?」
「やったあ、ピンポーン!正解!」

台湾では営業税を徴収するために政府が発行している公式の領収書(レシート)は「統一発票」と言われ、日本の年賀状のようにすべて宝くじつきなのです。買い物した時このレシートをもらえば、自動的に宝くじを買ったことになるのです。宝くじと言っても賞品ではなく賞金なんです。そして賞金は最低二百元から最高二百万元までで、抽選は二か月に一回、前二か月の発行分について行われるのです。だから、新聞に掲載された番号とあっているかどうか念入りに数字を見比べるのです。ぼくのところは、先月は残念ながら、一枚も当たっていませんでした。しかし、いつの日か二百万元が当たるのを夢見て、せっせとレシートを集めているのです。

それにしても、台湾のやりかたは上手ですね。脱税防止とはいえ、なかなかユニークな方法だと思いませんか。台湾では日本の消費税に相当する営業税が早くから実施されていて、統一発票はその営業税の算定基準になっているのです。だから、中には「統一発票を受けとらなかったら、5%の営業税をひいてあげるよ。」と言って消費者の心を「目の前の利益を受けとるべきか、どうか」ハムレットの心境にさせる業者もいるのです。そこで、政府は一部の高額賞金を廃止し低額賞金が当たる確率を増やしているのです。事実、日本の宝くじよりはるかに当たるんですから。以前十元の新聞を買って千元当たったことがありますよ。日本政府も台湾のマネをしたら、購買意欲が増えて不況脱出のきっかけになると思うんですが、どんなものでしょうか?

◆台湾で今もっとも人気あるのが「楽透券」即ち日本で言う「ロトくじ」です。42個の数字から任意の数字6個を選び、その数字が当たったらその1等の賞金がハンパじゃないのです。今年の1月22日にスタート以来8月までで何と175人の億万長者が誕生したそうです。1枚50元なので、私も一度買った事がありますが1つの数字さえあてるのが難しく「取らぬ狸の皮算用」に終りました。最近やや下火になったとは言え楽透券や統一発票は一攫千金を夢見させてくれるのです。


10. 孔子祭

台湾に住んでいる皆さんは毎年9月28日の孔子祭りを見たことがありますか? ぼくは前日に行われるリハーサル(と言っても本番と同じ時間から始まる)を朝早起きして見たことがあります。古式豊かに行われる伝統行事はまるで自分があの「ラストエンペラー」の映画の一場面にいるような錯覚を覚えた記憶があります。吉田先生も小学校5年の時参加して、その時の様子を記憶を辿りながら、絵と文に残してくれたのです。では早速タイムカプセルに乗った気分でどうぞ。

●孔子祭 (絵と文:吉田道夫)
 絵はこちらから→ http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/kouc.html

孔子といえば、誰でもが名を知っている。中国春秋時代の学者、思想家で儒教の創始者として有名。台湾各地に孔子を祀った廟がある。彰化市にも大きな孔子廟があった。五年生の頃、この廟で行われる孔子祭に参列する機会を得た。廟の前庭には各種団体の参列者で埋めつくし、中央祭壇の扉が開かれ、祭神の孔子像を中心に、いくつかの祭神像(人形)が立ち並び、金色の造花をはじめ各種の供物、献花等、その最前列に内臓を取り除き毛皮を剥いだ白肌の牛一頭、その両脇には同じく豚、山羊が濛々の煙を浴びながら並んでいるのが印象的だった。式は、すべて古式に習い、原語(中国語?)服装(礼服)も中国風極めて厳粛なものだった。この大祭には台中州知事外、三役ぐらいが礼服姿で参列した。中国の管弦楽奏のなりひびく中を整然ととり行われ、異様な感動を覚えた記憶がある。


9. 台湾中部大地震

「もう駄目だ。」と観念させられるほどすごい恐怖感を覚えたあの台湾大地震が発生したのはちょうど三年前の今日(9月21日)です。台湾中部に住んでいる人にとってあの日のことは一生忘れられません。吉田先生も時は違えど同様な体験され次のような絵と文を残されています。まさに天災(地震)は「忘れた頃にやってきた」のです。

● 台湾中部大地震
絵はこちらから↓
 http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/jisin.html
昭和10年(1935)4月21日(日)早朝台湾中部(新竹州苗栗〜大甲郡にかけて)地方にマグニチュード六〜八という大震災があり多くの家屋が倒れ鉄道道路の決壊電信の不通断水等死傷者七千人以上と言う大惨事が起こった。清水の町も多くの商店住宅が倒壊し死傷者千人以上という被害を受けた。各地で死体発掘作業が開始され郡役所広場には多くのテントが張られ救急医療活動罹災者救援のために官民一致不眠不休の活動がはじまった。この日は弟敏夫(小二)が社口(注)の民家の下敷きとなり死亡した。この日の驚きは今でも忘れる事は出来ない。
注:現在の台中県神岡郷にある地名

●復興作業第一歩
震災後、材木板などがどしどし運ばれ、被災者用のバラック建て作業が郊外の道路上、空き地、元公学校の運動場等----各地に突貫工事としてはじまり見る見るうちにバラック住宅、バラック商店街等にわか町並みの出現となった。仮設水道が引かれ、仮設電柱が立てられ、家庭に明かりがともり、そこから炊煙が立ちのぼる毎日となった。児童たちも失った教科書を与えられ、笑顔で通学する日々の毎日に戻った。それと同時に崩れた家の取り壊し、半壊の家の修理保全、または新築住宅の建設と復興の槌音があちこちで聞かれるようになった。


8. 中秋節

あれはいつのことだったしょうか。今でも鮮明に覚えていることがあります。何回目かの台湾に遊びに来たときのことです。夕方ちかく友達の家を訪れた時、庭先にテーブルが置かれ、その上に水・果物・お菓子など供え物を家族の人が並べていたのです。実はその日が日本でも「中秋の名月」と呼ばれている旧暦の八月十五日の中秋節だったのです。そうとは知らず、友達に「今日何かあるの?」と聞いたら、彼は「今日は中秋節なんだよ。」と教えてくれたのです。この時は、ただ単に「へぇ、台湾も日本と同じようにお月見の習慣があるんだ。」と思っただけでした。しかし、台湾に住むようになってからは、台湾が日本と同じ事をしているのではなく、日本にある伝統的な行事の大部分は昔、中国から伝わってきたものが多いと言う事に気がついたのです。「昔の日本は中国から漢字のみならず政治、文化、建築、仏教など多方面にわたり吸収してきた。いわば、中国は日本にとって先生だったのです。」と学校で学んだ記憶がありますが、日本人なら誰でも知っている七夕やお月見や干支などさえも中国から伝わって来たものだとは夢にも思いませんでした。

台湾では、最近の秋節家族でバーベキューを楽しみながら満月を眺める風習が定着しつつあります。また月をイメージとして月餅(げっぺい)や文旦(ザボン)が供えられます。月餅とはお餅ではなくて、色々な餡が入った一家の団欒を象徴する伝統的な中国菓子です。月餅にも北京式、広東式などいろいろありますが、もし、この時期に台湾に来たら、是非日本へのおみやげに持って帰ると喜ばれますよ。このへんで、都会に暮らしているとお月見なんて風流なことをする時間がないと言う人のためにも月餅にちなんだ伝説を話しましょう。

●月餅にまつわる耳よりな話
時は、十四世紀の末ごろの元朝の時代のことです。蒙古人のあまりの暴政に漢人たちは不満の限界に達していました。かれらは指導者の朱元璋を中心に元朝を滅ぼそうと計画をしている時、部下の一人がこう提案したのです。「親分、月餅の中に『中秋節の夜、漢人は一斉に決起せよ。』とのメッセージを書いた紙を入れ、餅売りに変装して漢人の家に配ったらどうだろう。」「そりゃ、おもしろい。よし、この手で行こう。」と言う訳で、この策略はまんまと成功したのです。ついに元朝は滅び明朝が誕生、朱元璋は初代皇帝の椅子に座ったのです。それ以来中秋節に月餅を食べるようになったのだそうです。

六百年を過ぎた現在も、日本人が月見団子を食べると同じ様に、この月餅を食べることが、中国人にとって楽しみなんだそうです。だから、常日頃お世話になっている人に対し、月餅を贈る習慣があるのです。以前は会社でも社員に中秋節になると、月餅をあげたものですが、最近の社員は会社から毎年もらう月餅に飽きて、「社長、私たちは月餅よりもお金のほうがいいですよ。どうか、今年は現金でくださいよ。」それを聞いた社長さんは「ああ、なんといまどきの人はドライな事。もうすっかり月餅の意味など失われている。」と嘆くことしきり。


7. 思い出の木 ガジュマル(榕樹)

台湾の澎湖島出身の人が「私の島を代表する跨海大橋のたもとにとても大きなガジュマルの樹があるのよ。樹齢300年の老木は強風の影響で上に伸びていく事が出来ず、ツタが根づいて次々と成長し、今では樹の下に500人位なら雨宿りできるわよ。」と言っていました。この話を聞いていつの日かそんなに大きなガジュマルを見に行きたくなってしまいました。皆さんも機会があれば行ってみませんか?又カラオケでよく歌われる「北国の春」は台湾では「榕樹下」の曲名になっていてこの中国語の歌詞の内容もとっても素晴らしく中国語で聞く「北国の春」もなかなかグーですよ。

●思い出の木 ガジュマル(榕樹) (絵と文:吉田道夫)
絵はこちらから↓
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou3.html

童謡
おとし芽したか ガジュマルさん
長いお鬚をだらり下げ
ゆらゆら 風にゆられてる

子ども頃、台湾の各地で長い鬚をぶら下げたガジュマルの大木をよく見かけた。 その大木の下の樹陰は真夏でも涼しい別天地、憩の場となっていた。 長い椅子がいくつもおかれ、昼寝をする人、将棋(台湾将棋)をする人、 話合いをする人、いろいろな人がいろいろと利用していた。 露店が出され、お客が集まる。アイスクリーム、氷屋、ビーフン、 揚げ物等軽食店、果物、飲み物店、いろいろの露店があった。 現在の台湾の町ではこのガジュマルの大木の姿をあまり見かけなく なった。町道路の開発のために切られたものだろうか? 残念に思っている。


6. 朝の挨拶

台湾では人と会った時に「ジャッパーボェ」と言う挨拶の言葉があります。これは、もう食べましたか、と言う意味で、日本人ならさしずめ「いい天気ですね」のような感じでよく使われます。台湾のことわざに曰く「民は食を以て天と為す」食べる事ほど重要なことはないのです。台湾の人たちにとって、天気は二の次どころか十の次かもしれません。だって、季節は日本のように四季がはっきりしていないし、一年中暑い?わけですから、天気のことはいわば、どうでもいいことなんです。戦前台湾で生まれ育った吉田先生は、60数年前の少年時代に耳にした台湾語を今なお覚えていたのです。では、早速吉田先生の描かれた文章を紹介します。

●台湾 朝の挨拶 台湾で生まれ育った湾生の思い出(3) 
昔、子どもの頃、台湾にいた頃、このような光景によく出会った、二人の男が道端で出会う、二人の会話
男A:リィチャパァボエ?     きみ、朝ご飯食べたか?
 B:チャパァロー。       うん、食べたよ。
 A:ホウ、ホウ。        そりゃ良かったな。
 B:リィボェキィトウウィ?   君、これから何処へ行くのだ?
 A:ゴァ、サィチィアー。    僕は、市場へ行くのだ。
 B:ホウ、ホウ。        あ、そうですか。

即ち朝の挨拶のひとこまである。日本人は朝出会ったら「お早う、またはお早うございます」という。これに比べて台湾人の場合は少し異なっている。君、朝ご飯食べたか?だって。 これには中国(台湾も含めて)において彼等の祖先の住んでいた何時の時代か?そうとう長い生活の歴史の中において、内戦?内乱?災害等のよって生活苦が続いたことがある、その生活の中から滲み出たことば、---これが、この挨拶の形となったものでと聞いている。 実に重みをもった一言である。


5. 台湾の農夫の代かき

皆さん水牛を見たことがありますか。東南アジア諸国ではまだ水牛をみることが出来ますが、台湾ではどこにいるのか今ではすっかり博物館の中に入ってしまったようです。僕が昭和50年夏初めて台湾を訪れた時は、水牛がのんびりと街道筋を歩いているのを見た記憶があります。今回はその水牛の紹介です。

●台湾の農夫の代かき (台湾の風物詩より 絵と文:吉田道夫)絵はこちらからご覧下さい。
 http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou2.html

梅雨がやってくると、農家も忙しくなってくる。田んぼも水いっぱいとなり、田植の準備にかかる時期に入る。内地(注)の農家では猫の手も借りたいと言う言葉がある程、忙しかったが、台湾の農民の場合は、そんな空気は全然感じられない。田に出て働くのも男性ばかりであったし、田を鋤くのも水牛君と農夫だけ------。あせらず-----急がず----。 朝早くから、台湾歌の声が聞こえて来る。見ると日焼けした水牛の背中に乗り、のんびり歌をうたいながら代かきをしている。ときどき、ハ!! ハ!! それから鞭をピシッという具合。水牛君黙々として田の中を鋤を引いて歩きまわる。のんびりしたものだ。 今日、台湾で水牛を見ようとしても、ちょっと見あたらない。

(注)当時台湾では日本のことを「内地」と呼んだ。(絵の補足説明)農耕作業中の牛の背中に子どもがのることはないそうです。また絵のような乗り方は不安定で、普通は馬に乗るのと同様に跨って乗りますが、作者は牛に乗っている人の表情を思い出して描いたのでしょう。


4. ツァボランの洗濯風景

日本人なら誰もが知っている「桃太郎」はここ台湾の子供たちでさえ知っています。その中の冒頭に「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。」と言うくだりがありますよね。1960年代まで台湾の田舎ではこのような光景が見られたそうですが、かっては洗濯できるほど川がきれいだったんですねえ。それでは作者(吉田道夫先生)の描いた絵と説明文を見てみましょう。
●ツァボランの洗濯風景   (注:清水は台中県にある町です。)
絵はこちらから見られます。http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/5904/gazou.html

清水の水源地から流れ出る水は、一部ポンプで山の上に上げられ市民の水道として使われるが、あとは小川となり町中を流れて海へと下っていく。 途中少し広い池のような水溜りのところを通り巾四〜五米の小川になるのだが----各所に台湾人の女性(ツァボラン)が洗濯や食器等洗い物をしている風景を見かけた。その個所には何人もの女性が集まりジャブジャブやっている。ジャブジャブやりながら、なかなか口の方も賑やかである。ここが彼女達のコミュニケションの場でもある。子供のこと、家の中の問題、料理の話、その他もろもろ、大声ではしゃぎながら、手を動かしている。

それに拍車をかけるかのように、石の上で棒を持って叩きだす。石鹸の白い汁が水中に流れこみ水の流れに消えて行く。洗い終ったものから一去り、二去り、小川はまた元の静けさに戻るのである。今日は電気洗濯機が普及し、生活状態も変化したのでこのような光景も見られなくなったのではあるまいか? 五十年前の清水のなつかしい思い出、今も脳裡によみがへ蘇る。


3. 鬼月、オバケの話

台湾では生活の節目である伝統行事は旧暦(農暦)に基づいて行なわれています。現在8月ですが旧暦では明日(9日)から7月です。その旧暦7月は台湾では、聞いただけでも身震いしそうな「鬼月」と呼ばれているのです。旧暦の七月一日になると地獄の門が開かれ鬼がこの世に降りて来て、一ケ月間人間に悪さをするから、この鬼月の間は、引っ越しや出国やめでたい結婚式などは古い習慣ではしてはいけないとされているのです。注:「鬼月」とは簡単に言えば、鬼すなわち「お化けの月」という事なのです。それで今日は子どもとオバケの話をしてみました。
「祥ちゃんは日本のオバケって知ってる?」
「知ってるよ。それ位。日本のお化けはね。足がなくて白い服を着ていて頭が三角になってる女の人が多いんだよ。ぼく、このまえお化けの本見たもん。ほかにもからかさとか一つ目小僧とかいろいろ書いてあったよ。」
「じゃ、台湾のオバケ知ってる?」
「知らないよ!そんなもの。パパは見たことあるの?」
「うん、ぼくもないけど、オバケがどんなものか知っているよ。」
「えっ! 本当?ねえ、ママも台湾のオバケ知っている?」
「知らないわよ。そんなもの。」
「パパは知っているって言ったろう。ねえ、パパ教えてよ。」
「祥ちゃん、台湾のオバケは全然怖くないんだよ。」
「えっ?オバケって怖くないの?パパ。」
「うん、実は台湾語にオバケという言葉があってね。」
「本当?ねえ、ママ、オバケと言う台湾語あるの?」
「オバケ? あーあ、あのオバケの事ね。ナーンダ。」
「ママ、なあに。そのオバケって」
「それはね。よく看板に黒輪と書いてあるの知っている?」
「うん、あれはおでんの事でしょう?」
「どうして、黒輪がおでんなのかと言うと、あれは台湾語の当て字で黒は“オー”と発音するからなんだよ。だから、オバケの“オは”黒いと言う事で、“バケ”は“にわとり”の意味。だからオバケは黒いにわとりの事なんだよ。」
「なーんだ。台湾のオバケかと思ったら、台湾語のオバケの意味じゃないかよ。よくも騙しやがったな。うーん、くやしい。」※日本では中元(七月十五日)は単にお世話になっている人への贈り物をするだけの行事になっていますが、もともとは盂蘭盆と呼ばれる仏教行事です。日本にはどういう訳か「中元」の言葉しか入って来なかったようですが、「上元」(一月十五日)も「下元」(十月十五日)もちゃんとあって、あわせて三元節と言うのだそうですよ。


2. 台湾を旅する(高雄)

花蓮で楽しい夜を過ごした翌日は高雄です。高雄でぼくが気に入っている所があります。そこは澄清湖という「台湾の西湖」とも言われているきれいな所です。ここの八景の一つに「九曲橋」があります。ここの橋は文字通り直角に曲がった角が九つあるのです。だから上から見ると大きな九つの階段に見えるのです。どうして、こんな形にしたかと言うと、魔除けのためなんだそうです。ここを訪れてきた人は、直線にすると二〇〇メートルほどの橋を必ず歩いて渡って厄払いをするのです。悪魔は真っ直ぐしか走れないので、悪魔に追い掛けられたら曲がりくねって走れば、悪魔を振り切ることが出来ると言う訳です。九曲橋から歩いて駐車場に行く途中、松の木のところにおじぎ草が生えていました。誰もがおもしろそうにおじぎ草を採って指で触れるんです。するとどの草も「ありがとうございました。またお越し下さい。」と言うかのようにお辞儀をしたのです。

高雄は清朝時代には「打狗」と呼ばれていて、この発音が日本語でタカオに聞こえたので「高雄」になってしまったのだそうです。もっとも、戦後の読み方は中国語で発音されますから「タカオ」は日本式読み方です。この他にも、台湾に日本人が残していった地名は少なくなく、台北の萬華、台北のとなりの三重市、板橋市のほか、台中のとなり豊原市、南投県の名間、台南県の玉井、高雄県の岡山、台東県の池上など数多くあるのです。台湾の地図をみていると、日本の地名がたくさん発見できて楽しいですよ。なんだって、台湾の南の島にも琉球があるんですから。

また、それからこんな話も聞いたことはありませんか。台湾で最高峰の山「玉山」(3952m)は富士山より高い山だというので、戦前は「新高山」と呼ばれていたのです。それで第二次大戦(真珠湾攻撃)のときのあまりにも有名なかの暗号文「ニイタカヤマニ ノボレ」に登場したわけなんです。ちなみに二番目に高い雪山(3884m)は昭和天皇が皇太子のとき台湾に見えられた際に「次高山」と命名されたんだそうですよ。どうですか。台湾がぐうんと身近に感じられるでしょう。* 台湾の山は上位12位までが富士山より高く、そして三千m級の山々は49もあるのです。また、なんと中央山脈の合歓山(3416m)にはスキー場があるんですよ。どうですか。台湾の山にも、雪が降るなんて知らなかったでしょう?そういえば、以前家族連れで花見に新宿御苑へ行ったら、家内が「台湾閣」と呼ばれる中国式あずまやを発見したのです。新宿御苑にも「台湾」があったので、その時の台湾閣から見た桜は、前日の時ならぬ雪化粧とで、とても印象的で忘れることのできない思い出となったのです。


1. 台湾を旅する(台北、花蓮)

日本人の台湾観光で必ず訪れる所と言えば台北、花蓮、高雄です。まず、台北で日本人に人気のある観光スポットと言えば、故宮博物院や圓山ホテル、総統府などが挙げられます。皆さんの中にも行ったことがある人が多いと思いますので、あまり観光ガイドブックに載ってない話をしましょう。故宮博物院には、はかりしれない価値のある国宝級のものがたくさんあるのです。展示スペースなどの関係で一度に展示できるのは約二万点ほどで、3ケ月ごとに一部が入れ替えされているとか。でも総数六十万点を越えるといいますから、もし全部見ようとするなら、いったい何年かかるのでしょうか。現地のガイドさんが主な展示品をユーモアをまじえて説明してくれますから、個人旅行で来た人は団体客の中に紛れ込んで聞いたほうがいいですよ。

故宮博物院のあとは圓山ホテルで記念撮影です。台湾の人たちは外国から帰って来た時、飛行機の機内から圓山ホテルの姿を見た瞬間「ああ、わたしは台湾に戻って来たんだ」という特別の感慨を持つそうです。きっと、日本人なら富士山を見た時の気持ちと同じなのでしょう。ところで、このホテルは以前台湾神社があったところなんです。 えっ? ガイドさんに聞いたって。総統府も日本時代は台湾総督府だったのです。今から約八〇年前に建てられたルネッサンス式の赤レンガ造りの立派な建物です。韓国にあった旧総督府が取り壊しされたのに比べ永久保存されると言いますから対照的ですね。毎年十月十日の国慶節の時はこの総統府前で盛大に記念式典が行われるのです。国慶節の夜、ここはライトアップされてきれいですよ。

じゃ、つぎは飛行機で花蓮へ行きましょう。花蓮は多くの日本人が移民した所です。初めて花蓮を訪れた時こんな事がありました。知人のクルマで花蓮を案内してもらっていると、昔の日本人部落に着いたのです。一瞬「ここは本当に台湾?」と思ってしまいました。クルマから降りて、ある家の玄関口で「ごめんください」と声をかけると、家の中からおばあさんの「はい、何でしょうか」なんて上手な日本語で返事が返ってきたのでビックリしてしまいました。もちろん、その後おばあさんから家の中を見せてもらい昔のことをいろいろ聞かせてもらったのです。さて花蓮は大理石とタロコ峡谷が観光資源。タロコ峡谷を見なければ「お前は何しに来たんだ。」と花蓮の人から怒られてしまいます。タロコ峡谷は別名「リトル・グランド・キャニオン」と呼ばれているほどの絶景地なんですから。タロコ峡谷の中に観光バスから降りて歩く所の一つに慈母橋と呼ばれる橋があります。約八十メートルの橋の欄干は白い大理石で作られ、橋の入り口には左右にこれまた白い大理石で彫った唐獅子(コマ犬)が対になって立っています。雄獅子と雌獅子の区別はどう見分けるか知っていますか。また橋を渡る時おもしろい習慣があります。どんな習慣だと思いますか。唐獅子の話は次の機会に残してとっておきましょう。ああ、それから原住民阿美族の踊りも見てくださいよ。阿美族文化村で毎晩二回ショーがあり、特に中秋節(満月の夜)の豊年祭りは盛大ですよ。


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