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Taiwan Tips台湾風編)

9. 紫微斗数の世界

はじめに
占いについては以前にも「算命の都」(単行本収録)「ショートストーリー2」で書いたことがある。しかし、私が今回紫微斗数という占星術をとり上げるのは、殊更に当たる当たらないだけを強調したいからではない。紫微斗数の占いの中に中国人が古来より受け継いできた世界観、人間観が見て取れるからである。 そして、それは現実社会で日々格闘している私たちにも、ひと時のブレイクを提供してくれる。紫微斗数の歴史は古く、易経にその源を発する。人間社会の様々な事柄をデータ蓄積した統計学と天文学が融合して出来上がった。なお、この占術は非常に精密なので、具体的な占断方法について本文では必要最低限の説明しかしていないことをお断りしておく。
 
『紫微斗数の世界』
夫の借りている事務所の隣の部屋に、最近占いサイトの運営会社が入居してきた。紫微斗数専門のサイトである。紫微斗数は中国式星占いで、台湾の街でも割によくその看板を見かける。ある日、夫から電話がかかって来た。「今日は紫微斗数の先生がお隣のよしみで、タダで見てくれるそうだからおいでよ。」そんなわけで、呼ばれて来てみた私である。紫微斗数の占断に必要なデータは生年月日と時間のみ。その出生時の星星の動きを映したホロスコープを「命盤」という。見たところかなり複雑だが、それも今はパソコンにデータを打ち込めば誰でも作れる。問題はそれをどう読み取るかだ。さて、占いが始まった。先生は見かけ極ノーマルなサラリーマンタイプの中年男性である。特に悪いことも言われず「私ってまずまずの運じゃないかなー」と思ったが、ふと好奇心でこんなことを聞いてみた。
私「あのー、先生はもう何十年もこうやって命盤を見ているのでしょうけど、過去にはもう『とんでもなくヒドイ運命の人』とかいました?」
先生「いいえ、そういう人はいないね」
私「そうですか?(意外!)じゃあ、すべてパーフェクトに幸運っていう人は?稀にいるんじゃないんですか?」
先生「いいや、そういう人もいないよ。必ずどこかいいところと悪いところがある。例えば李登輝前総統に聞いてみたらいいよ。『あなたは幸せですか』ってね。きっと、『息子さえ返してくれるなら、総統になんてならなくてもよかった。』って言うだろうよ。」(李登輝氏の息子さんは若くして亡くなっている)
私「じゃ、人はみな平等なんですか?」
先生「うん、そうだよ。」

そう言われて、もう一度命盤を眺めてみる。紫微斗数の命盤は四角いマスが12個、ロの字型に連続して並んでいる。それぞれのマスに子丑寅‥…と十二支が配置されていて、それぞれに何々宮と振り分ける。命宮、父母宮、福徳宮、田宅宮、官禄宮、僕役宮、遷移宮、疾厄宮、財ハク宮、子女宮、夫妻宮、兄弟宮。つまりある人は寅のマスに命宮があって、卯のマスに父母宮が、またある人は馬のマスが命宮で…という具合だ。そしてそれぞれの宮にどんな星が入り、他の星とどんな位置関係にあるかを見ることで、その運勢を判断する。例えば、財ハク宮を見れば財運がわかり、夫妻宮を見れば結婚運がわかるのである。命宮はその人の性格と全体運を表す。…確かに紫微星(北極星)も太陽星も太陰星(月)も火星もいつも必ず空にある。違うのは位置だけだ。なるほど、誰の命盤にも同じ数だけ吉星と凶星があるわけだ。李氏のように仕事面に吉パワーが集中すると、他の宮、例えば子女宮には何か悪い星が来てしまうらしい。

さてさて、では私の命盤は…と。先生に解釈を頼むと、仕事運、財運はけっこういいが、田宅宮(不動産運)や疾厄宮(健康運)はよくないという。不動産など今まで縁がないのでよくわからないが、今後持とうとするとトラブルがたくさん起こるという。そして健康運。これは首をぶんぶん縦に振ってしまう。もう、虚弱で体力まるでなし、しょっちゅうどこか具合が悪い。しかし仕事運と財運?今は育児中心の生活で殆ど収入もないし、以前は貧乏日本語教師で貯金もないんだけれど?そこのところを突っ込むと先生は「あなたの財運は来年も悪くないけど、本格的に開けるのは42歳から」という。
私「その時私が大作家にでもなっていたらいいけど、もし専業主婦だったらどうなるんですか?」
先生「大丈夫。その場合はあなたの運をご主人が使うことが出来るのです」
うーむ。運は貸せるのか?…貸せるらしい。先生の話によると、ある時事業で成功したお金持ちの男性を占ったが、その人自身はまるで仕事運がなかったという。けれど、奥さんの命盤を見ると非常に仕事運と財運がよかった。この奥さんは主婦で、自分ではこの運を使わなかったのだ。そういう場合、この運は自動的に夫に移るという。「だから、昔の金持ちは妾をいっぱい囲ったのさ」と、傍にいた先生のお弟子、邱さんが言った。つまり、数の女性と実質の婚姻関係を結ぶことで、その女性の運を借り受け、自身の財運をアップさせるのだという。

妾の話はさておいても、これは専業主婦には朗報ではあるまいか?奥サマ、「主婦だから経済力がない」なんていう自己卑下はコンリンザイやめよう。主婦も財運を夫に貸すことで家計に貢献しているのだ。不思議なものである。この運の貸し借りは夫婦間だけではなく親子でも起こるそうで、時に債務超過になることもある。その極端な例が李登輝氏だそうだ。李氏は総統になるほどのすごいパワーを蓄えるために家族からそれを吸い取ってしまったと、紫微斗数では解釈する。結果、息子さんは命を落とした。そういえば、現総統の陳水扁氏の場合も思い当たるフシがある。陳氏本人は元気いっぱいなのだが、夫人は車椅子生活である。陳夫人は、陳氏が政治の世界に入ってから事故に遭い(テロだったとの噂あり)以後、一生歩けない体になってしまったのだ。

それにしても、「人はみな平等」というお言葉、どうも納得できない。世の中には苦労ばっかりしている人や、何事にも恵まれている人がいるように見える。この疑問について先生はこう答えてくれた。
先生「例えば貧乏にあえぐ人がいたとする。でも、その人は自分が健康に恵まれていることに気づかなかったりするものだよ。王永慶さん(台湾の有名企業家)だって、あれだけ金持ちでも健康状態はよくないでしょう?お金があっても、家庭不和や病気で不幸な人はたくさんいるじゃないか」
うーん、でもまだ今ひとつ腑に落ちない…。私がやっと頷けたのは、後日お弟子の邱さん(腕は既にプロ級)に更に詳しく紫微斗数について話を聞いた時だった。
邱さん「それは先生が『幸せになるチャンス』は誰でも平等にあると言ったのさ。」そう言って彼はいくつか他の人の命盤を見せてくれた。
邱さん「例えばこの人。いま40代だけど、若い時非常に家庭が裕福だった。命盤を見るとこの財運は中年で尽きる。けれど、そのことを知ってきちんと財産管理をすれば、晩年まで大過なく過ごせるはずだ。」
12個のマスからなる命盤は、ある種の暦というか時計でもある。ひとつのマスには生まれてから10年ごとの時間がそれぞれ振り分けられている。数えで2歳から121歳まで。(但し誰でも121歳まで生きるという意味ではない)そいうわけで一生の内、いつその人の運のピークが来るのかを知ることができる。
邱さん「先生はいつも『春夏秋冬を知れ』と言っているよ。」
つまり、誰にも運勢の上で忍耐の冬や、芽吹きの春、緑生い茂る夏、収穫の秋がある。だがそれが何時なのかは人によって違う。スパートすべき時にスパートしなかったり、間違った時期にスパートしてしまったりすると結果は大きく違ってくるのだそうである。例えば、若年の時には不遇だが、晩年に大成する運勢の人がいるとする。もし若い時に貧乏に負けてまったく学問をせず、何も学んで来なかったらいくら晩年運がよくてもそれを生かせずに、貧乏のままで終わってしまう。「そういう意味で、一生掃除夫で終わる人と皇帝がまったく同じ命盤ということもありうる。」のだと邱さんは言う。ではその命盤とやらはどれほど正確なのか、ここはどうしても検証してみる必要がある。

「面白いんだよー」と言いながら邱さんは私の命盤を指差した。
邱さん「例えば今日は羊年の、旧暦の五月の何日だ…?えーと今何時?」
前述のように命盤は時計でもある。何年、何月、何日、何時に何が起こるかまで見ることが出来るという。彼はブツブツ数えながら命盤のマスをすごろくのようにたどってゆく。
邱さん「今日の今、3時はこのマスね。ほらここに巨門星が入ってる。僕は命宮が巨門星なんだ。だからこの時に僕と会うって、命盤上に出てるでしょう。こうやって紫微斗数を研究していると実際に起こる出来事があんまり命盤のとおりなんで、時々イヤになっちゃうんだ」
彼は続けて、自分が今年目の手術をした時のことを語った。命盤からは6月に手術、そしてかなりの出費ということがはっきりと読み取れたけれど、それを承知でこれを変更しようとした。病院をかえてなんとか健康保険でカバーできるように努力したけれど、どうしてもダメで結局自費で手術したのだそうだ。そんなに当たっちゃうのか?すると凶星にぶつかった時はもうお手上げなのか?いやいや、この占断はそう簡単ではないようだ。
 
例えば、私の夫の夫妻宮には天同星があるが、これは結婚生活で色々問題が起こる星である。何らかの理由で別居、あるいは不倫もありうるという。ところが、この夫妻宮の向かいの宮には鈴星という凶星がある。この凶星がブレーキになって、結婚生活の破綻には至らないのだそうだ。反対に夫妻宮に吉星がたくさん入るのは、よくないらしい。夫妻宮の吉星は第三者の介入を表すので、姑や浮気相手などが結婚生活にモメゴトをもたらす。紫微斗数の占断は本当に複雑である。何十個とある星それぞれの性質だけでなく、星と星との相性、位置関係の吉凶まで精通していないと正しく命盤を判読できない。だからこそ、その占いは自分だけのオーダーメイド。西洋占星術のように「今週の魚座は、恋愛運最高」などと大雑把なことは言えないのだ。

ここまで読んでお解かりのように、紫微斗数の世界はすべて微妙なバランスの上に構築されている。中国語に「楽極生悲」という言葉があるが、つまり喜びも極まれば悲しみを生むのだ。吉と見えることが凶を呼び、凶と思えたことが吉にもなる。それを知らない私たちは日常、よく他人を羨む。その美しい容貌、恵まれた家庭環境、出世のスピード、いつもステキな恋人がいる等、どれもこれもが羨ましい。けれど、紫微斗数の考えでは、よいことがあれば必ずそれに見合うマイナスがある。逆もまたしかりだ。そして一生の内に自分にも必ず運が上向く時があるのである。そう思うと心が軽くなる。いうなればこの命盤は人生地図なのだ。この先にどんな危険な崖があるのか、あるいはどこに喉を潤す水場があるのかをかなり高い精度で知らせてくれる。けれど、地図は地図に過ぎない。その道を通る人が難所をうまくのりきるか、それとも足を滑らせて絶命するかまでは関知しない。ただ、登山客としては「この先にこんなすごい岩場が」と知って通過するのと、サンダル履きなのにいきなり岩場に遭遇するのでは疲労感もだいぶ違うだろう。興味深いのはこの地図=命盤上には自分が結婚する「運命の人」も出現するということだ。ロマンチックではないか。
邱さん「ここを見て。あなたの夫妻宮には貪狼星がある。だからほら、ご主人の命宮にも貪狼星があるはず…あれ?ないね。じゃ、彼は天が定めた運命の人じゃないんだ。」
私「なにー?(台湾まで来て人違いってことか?)」
邱さん「いや、あのね。これこれこうでこう見ると…ほら、ここにご主人の星、太陽が。だからふたりは前世で確かに何らかの関係があったはずなんだ。」
私「それで私が本来結婚するはずだった運命の人は今どこに?!」
邱さん「さぁ…」
…この話続かない。これで終わり。


8. SARS渦中の台北で

5月のある日、日本にいる友達から国際電話をもらった。台湾で新型肺炎SARSが感染拡大しているのを心配してのことだが、無事を確かめた後でこう言うではないか。「台湾ではマスクが足りなくて、ブラジャーをマスク代わりにしてるって日本のテレビじゃ何回もその映像が流れてるわよ」それなら私も見た。笑った。どこか田舎のオジサンがブラジャーを半分にして紐部分を縫い直し、口にあてがっている姿。しかしまさか日本で大々的に紹介されてるとは知らなかったので、びっくりである。日本人には「台湾ではみんなブラジャーマスクしている」と誤解されただろうか?台湾に住むものとしてはトホホ…である。断っておくが台北市内では、そんな人は一人もいない。そもそも、マスクが足りないと言ったってここは台湾である。抜け道はいくらでもある。マスクが薬局で品切れになった瞬間から、街にはマスクを売る露天商が数多く出現した。スヌーピー型やポスペのモモちゃん型、紙製使い捨て用から、医療用の3M社製N95まで。少なくとも台北市内ではマスク価格こそ高騰したが、選り好みしなければ手に入る状態だった。

しかしこのマスク、いったいどこから湧いて出たのか?急遽生産された粗悪品もあったし、蒸発した救援物資もあったようである。「蒸発した」とは海外から届いた救援物資の箱から、誰かが抜き取り横流しした品のことである。5月上旬、台湾の税関には世界各国(主に華僑)から届けられたマスク1000万枚以上が山積みになっていた。「台湾の誰、或いはどこの機関」宛てか明記されていないので、通関できない状態だったのである。その後、「一定時間経過して引き取り手がないものは強制的に政府が引き取る」ことになり品物が動き出したが、各医療機関に配送する途中で、マスクがバンバン蒸発した。ほんの1〜2月前のことであるが、当時本当に台湾国内は騒然としていた。ニュースによると、ある台湾人実業家が医療機関に寄付しようと自腹で130万元分の医療用品(マスク、防護服など)を注文したが、使い物にならない粗悪品を掴ませられたという。業者はそのままドロン。せっかくの志を踏みにじる不心得者もいるものだとがっかりさせられた。因みにこの時、日本の外務省からは3000枚のマスクが届けられた。3000枚…在台日本人は少なく見積もっても1万5千人、中華民国の人口は2000万人であるが、3000枚。もちろん私の手元には届かなかった。(後に交流協会が独自に5000枚を追加調達)

毎日SARSで人が死んでゆくニュースが伝えられた5月の頃は、皆かなり緊張していた。その頃こんなことがあった。友人の王さんは食あたりで一日会社を休んだが、翌日会社へ出ると同僚の様子が違ったという。廊下のはるか遠くを歩いている同僚が、彼女の姿をみつけるやいなやポケットからマスクを取り出して着け、避けるように過ぎ去ってゆくではないか。おまけに毎日机を並べて働いている同僚からは、別棟のオフィスへ行って仕事するように言われたそうである。…その怖がり方がおかしいらや悲しいやら。しかしこの程度は序の口で、カラダを張ってSARS患者の看護にあたっている医療人員の子供が学校で偏見に遭っているニュースも何度か流れた。SARSにまつわる台湾人の心情は複雑だ。感染を恐れて人を遠ざけようとする一方で、疫病に立ち向かい団結しようとするエモーションもある。病院を辞める医療人員が相次いだのと入れ替わるように、志願してSARS医療現場に身を投じた人も多数いた。

ではもう少し時間を遡って台湾SARS騒動の発端を振り返ってみよう。それは、4月下旬台北市立和平医院で院内感染が発覚したことから始まる。4月24日正午、和平病院封鎖。あっという間に立ち入り禁止のテープが張り巡らされて、中にいる人全員患者、たまたま建物の修繕に来た作業員までもが閉じ込められ強制隔離になった。北部では続いて仁済医院、中興医院、関渡医院、台湾大学付属病院、(6月になって陽明医院)で集団感染が起こる。遅れて高雄他南部にも感染拡大した。この時は病院にも十分な備えがなく、救急窓口にSARS患者がほったらかしにされたり、防護服も医療人員に行き渡らず混乱を極めた。市民の間に不安が広がる中、私が目を見張ったのは感染拡大と追いかけっこするように次々と繰り出される台湾政府の「強制隔離」「罰金」強行策である。

香港など感染地区からの入国者も10日間強制隔離(現在は条件付解除)、SARSらしき人と接触したものは直ちに自宅隔離。ホームレスもウイルスを拡散させる恐れがあるので半強制的に一箇所に集めて収容した。自宅隔離中にこっそり抜け出したら6〜30万元の罰金。飲食業、タクシー業者、MRT乗客はすべてマスク着用強制で、違反したらまたも罰金である。(さすが中華圏、罰金が一番効くらしい)シンガポール在住の読者こんどうさんによると、シンガポール政府もSARS対策には相当に強行だったそうだが、台湾も同様だ。もう人権侵害なんてゴネていられない。それもいたしかたないし、そうでなければ伝染病を押さえ込むことは難しいだろう。

この一連の騒動の中で、特に人々の耳目を集めたのは5月中旬「SARSの台湾人医師が日本の関西各地を観光旅行」のニュースだろう。もちろん、私もこの医師の軽はずみな行動に憤りを感じたし、一般台湾人も同じ反応だった。けれど、このニュースを聞いて私が最初に思ったことは「どうして台湾人観光客がこんなに簡単に日本に入国して観光できるの?」である。この医師が日本観光した5月上旬、既に日本は「感染地区からの帰国者は10日間の自主自宅隔離」を勧告していた。法的強制力はないものの、自国民にはこのような制限を加える一方で、台湾からの入国者は隔離の必要もなく自由に日本国内を観光できたのである。この事件の後、日本は慌てて台湾人に対し、ビザ申請時の質問表への記入、必要な場合は医師の診断書を提出させるようにしたが、対応は遅きに失したと言わねばならない。

この事件が発覚した際の日本のリアクションは皆さんご存知のとおりだ。特に印象深いのは、この件で問題の医師が所属する病院が行った記者会見である。その時の台湾での報道を少し紹介する。「新型肺炎(SARS)に感染しているにもかかわらず、日本を旅行した台湾人医師が日本で反発を呼んでいるが、その医師が勤務する馬偕(マカイ)記念病院で17日に記者会見が行われた。そのとき朝日新聞の日本人記者が中国語で質問した。『もし日本で買春したとすれば、相手に感染した可能性が高い』という内容が逆に台湾人の反発を買っている。病院側は『(医師)個人の行動は把握していないが、台湾で誰が買春しているのか我々はよく知っている』と日本人への皮肉を込めて反論した。」事実この「買春」発言は台湾人の失笑をかった。この様子が日本でどこまで報道されたのか私はよく知らないが、病院関係者に詰め寄る日本人記者たちの詰問は殆ど怒号と言ってよいほどだった。その怒声を聞きつつテレビの前で私はひとりごちた。「あなたいつからひとりで日本国を背負うようになったの?その調子で日本政府のSARSに対する無策も糾弾してよ。」確かに台湾人医師の行動は責められるべきだ。しかし各地SARS流行の情報がありながら、ドアをガバッと開けチェックもせずに人を招き入れた後で「あんた病気を持ち込むな!」と怒る日本も日本である。人の命に関わる問題を他国民の良識だのみにしていて日本が守れるのだろうか?
 
そうこうしているうちに、今週友人の陳さんからこんな電話がかかって来た。陳さん「今週末に日本へ旅行に行くのよ。4泊5日、ディズニーランドと箱根観光もついて13500元(約47250円)!安いよねー。フリータイムはどこに行ったらいいかしら?」私「それでビザ申請の時は診断書出すの?」陳さん「えー?そんなのいらなかったよ。ビザは形式的に質問表に記入しただけだけで、すぐおりたよ。それで秋葉原は…」友人の質問に適当に答えつつも、私の額にはタテ線三本だ(ちびまるこちゃん風)。「だーかーらー、学習してないのか日本国よ!なぜまだそんなに簡単に観光させる?手ぬるい!台湾はまだWHOの渡航延期勧告が解除になっていないのだ!」ここまで読んだ方の中には「けれどそれは日本の防疫問題だから、海外暮らしのあなたには直接関係ないのでは?」と思う方もいるかもしれないが、実は関係大ありである。日本の水際防疫が甘いことは、結果的に私たち在外邦人をも危険に晒した。そのことをはっきりと覚ったのは、5月中旬に実家の父から電話をもらった時である。台湾でSARS患者が急増し、父も私たち一家の身を案じていた。私は「もし感染がもっとひどくなったら家族を連れて、日本に緊急避難すればいいだろう」とタカをくくっていたのだが現実はそんなに甘くなかった。父は「台湾帰りだとご近所の目があるから…どうしたものか」と言を濁すではないか。
 
5月のGWには中国からだけでも3000人以上の帰国者があったそうだが、検温もなく水際の健康チェックは甘かったと聞く。外国人観光客に対するチェックの甘さは上記のとおり明らかだ。日本政府がSARS対策として入国管理を厳重にしないことは、一般日本人の疑心暗鬼を招く。「あの人は香港帰りだけど感染していないか?」「あの人は中国からだけど大丈夫なのか?」帰国者はいくら「自分は大丈夫だ」と言っても誰にも信じてもらえず、逆に偏見に遭う。それはすなわち、「入国できたのは、SARSに感染していないから」と言えるお墨付きルールが確立していないからである。また、日本政府が「どんな場合にSARSに感染するのか」キチンとした情報を提供しないから、台湾人医師事件の際に関西はパニックになった。まるでSARSが空気感染でもするかのような慌てぶりである。結果、感染地区からの帰国者が日本でバイキン扱いされたケースが多発した。この偏見の為に私をはじめ多くの在外邦人が、SARS感染地区から逃れたくてもその場から動けなかったのである。だからSARS防疫の為の入国管理はガンガンに厳しくして欲しいのだ。私だったら入国したとたんに特別施設で10日間強制隔離されてもかまわない。診断書の提出なら望むところだ。それで、実家に戻った時に「ご近所」の偏見がなくなるのならば。

かくして私たち一家は祖国日本の偏見を恐れ、いまだに帰国できないでいる。けれど台湾でも生活はしなければならないから、市場に買い物にも行くし、病院へも出かける。(但し大病院は避ける)幸い身近な人が感染した話は聞かないが、「誰それは同僚がSARSの疑いがあるので自宅隔離になった。」ぐらいの話は聞いた。それでも、毎日息子を公園に連れていって近所の子と遊ばせている。SARSは唾液が粘膜を通して体内に入らなければうつらないから、ウイルスに手で触っただけでは感染しない。だから皆、手洗いを励行しながら通勤通学している。ただもちろん生活上、いろいろ影響が出るのは免れない。例えば市場に行ってもやしを買う。
私「オバチャン、もやし10元分ちょうだい」
オバチャン「10元はないの。最低15元からだよ。」
私「なんで?この前は10元だったよ。」
オバチャン「原料が値上がりしたからね。」
もやしとSARS…?実はSARSが流行しはじめてから、台湾では庶民の間で「緑豆とパイナップルがSARS予防に効く」とまことしやかに語られ、この2品の価格が高騰したのだ。(科学的根拠不明)けれどSARSが下火になりつつある今にいたっては、悪いことばかりでもない。友人の謝さんはこれまた今週末、花蓮のご主人の実家に帰るという。それというのも、SARS以後経営困難に陥っている航空会社の巻き返しキャンペーンで「二人連れ乗客はひとり分タダ」だからだ。このごろは各地で途絶えていた客足を呼び戻そうと大出血サービスが展開されている。シェラトンホテル(旧来来大飯店)は1元弁当を販売。その他の一流ホテルも一泊990元キャンペーン中で、まさに捨て身の作戦だ。

確かに今でもスターバックスや郵便局など多くの場所では入り口での検温をクリアしないと入れない。けれど市民は少しずつもとの生活ペースを取り戻している。体温に注意して、必要な場所ではマスクして…あと出来ることと言えば、ニュースで情報収集することぐらいだ。そうそう先日、日本人医師団が重さ300キロのお土産(医療用品)を持って来台したニュースは興味深かった。NHKで医師団の記者会見を見た時は「台湾でマスクはもう足りているが、防護服が不足しているので援助すべき」と述べているところが主に流れていた。だが台湾での報道を見ると「日本人医師団は台湾のSARSへの取り組みを評価。以後継続的な情報交換を希望」となっていた。立場の違いで報道の仕方も違う。実のところ日本人医師団が持ち帰った「台湾のSARS経験」は日本にとって、持参のお土産以上の価値があったと思う。今の日本にとってSARSは対岸の火事だろうが、この先いつ日本に火の粉がふりかかるかわからない。

さて話を「ブラジャーマスク」に戻す。実はこのマスク以外にも「お碗マスク」なるキテレツな品もテレビで見た。これはプラスチックの使い捨てお碗の底を抜いて綿だか生理用品だかを詰め、マスクに仕立てたものである。ブラマスクといいお碗マスクといい、まったく笑える珍品だ。けれどこれが「台湾の希望」なのではないだろうか。これらを「おかしいねー」とか「案外つけ心地がいいよ」と笑って言える。そういう人を排除しない社会がここにある。
 
台湾は世界の孤児である。SARSが蔓延する5月、台湾はWHO加盟を切望したがまたしても中国の横槍で実現しなかった。(これで7回目の申請失敗)海外からの救援がほとんど望めず、逆に他国からビザ発給の制限を受けている。(米国だけがいち早く専門家を派遣し、対応策をアドバイスした)この悲観的な状況の中で、改造マスクをつける庶民の大らかさと逞しさ。危機に直面した時に、ただ泣いているだけではことは解決しないのだ。私たちは彼らから多くのことを学ぶことが出来る。まず自分の出来ることからアクションを起こすべきであること、そして解決の方法はひとつと決め付けてはいけないということをだ。(最後に、医療の第一線でSARSに感染し殉職した医師二名と看護婦四名、放射線技師一名の方々に感謝と哀悼の意を表する)


7. 結婚式と赤い爆弾

最近、育児仲間の謝小姐(ミズ謝)が私に向って「赤い爆弾にやられた!」と嘆いた。彼女は小学校卒業以来、全く連絡の途絶えていた同級生に「爆撃された」と憤慨していた。話しが全く見えない読者も多いと思うが、このエピソードを言いかえるとこうなる。謝小姐は、小学校の同級生から結婚披露宴の招待状を受け取った。 街中にジングルベルが流れる年の瀬、台湾はまさに結婚シーズンのピークを迎える。華人というのは、一年のうちで旧正月をもっとも大切なイベントと捉えていて、更に「めでたい新年は、お嫁さんをもらってよりめでたく過ごすのがよし」と考えている。いきおい旧正月前に結婚式を挙げるカップルが多くなる。 私もこのひと月の間に二回結婚披露宴に参加した。もちろん披露宴に出掛ける前には、必ず招待状を受け取る。この結婚披露宴の招待状は「喜帖」と呼ばれるが、通常は封筒もカードも「まっかっか」だ。

さて、なぜ爆弾などという物騒な言葉を使ったかというと、「喜帖」は本当に「赤い爆弾」という異名があり、その呼び方は一般に広く定着しているからだ。由来はズバリ「喜帖」をもらったら最後、それ相応の出費を覚悟しなければならないから。おしなべて言うと台湾の結婚披露宴は、キャンドルサービスも、ドライアイスも、引き出物(お祝い返し)もないので日本より費用が掛からない。通常は大勢で賑やかに会食して、食べ終わったらすぐ解散だ。その為、特別豪華な披露宴でもしない限り新婚夫婦の黒字になる。一方、「喜帖」をもらった側としては、どんなに疎遠な相手でもお祝い事なので出席しないまでも最低幾らか包まないわけにはいかない。つまり「喜帖」はバラ撒けばバラ撒くほど新郎新婦の懐が潤うのだ。そういう訳で、もし新郎新婦が厚顔であればどんどん「赤い爆弾」で知人を爆撃して、お金儲けをする。披露宴に来ない人が多ければ、お祝いだけもらうので収支はより理想に近づくという寸法だ。

私自身は、たかだか台湾在住8年程度なので疎遠な人から「喜帖」をもらう機会はそれほど多くはないが、それでも過去に一回だけ「赤い爆弾」に当たったことがある。爆撃手は通称小童といい、S社の同僚だった。副総経理(重役クラス)専任運転手の彼は社内巡回お喋りが日課。よく言えば社交家、悪く言えば噂好きの放送局で、秘書として私はちょっと警戒していた。さてその後、彼は客を迎えに行くのを忘れたり、高速道路で居眠り運転したりするミスを重ね、遂に4ヶ月分の給料を渡され、解雇されてしまった。

その彼が去ってからちょうど4ヶ月が過ぎた頃、静かなS社社内はフイに小童の「赤い爆弾」により絨毯爆撃された。笑顔で渡された赤い封筒を開くと、中からはドレスとタキシードで正装した二人の写真が刷り込まれた「喜帖」が。めでたい…めでたいんだけれども「なぜ今さらこれを…?」小童は同業他社の運転手にまで「赤い爆弾」を撒く徹底振りだった。

因みに話しはそれるが、台湾人は結婚の時におびただしい枚数の写真を撮る。それは、結婚式の1〜3ヶ月前までに撮影され、出来たものは「喜帖」に刷り込み、分厚い写真集に仕立て、且つタタミ半畳ほどの巨大な額縁に加工される。もちろん衣装は「とっかえひっかえ」、撮影はスタジオのみならず野外ロケも敢行する。写真集だけでも電話帳2冊分以上のサイズと厚さがあるが、この写真集と巨大額縁も披露宴の当日に入り口で一般公開するのが習慣となっている。その為に「婚沙撮影」という専門の業者があり、衣装の貸し出しからヘアメイク、スタジオ&ロケ撮影、写真の表装までオールインワンで面倒見てくれる。お値段は30〜60ショットくらいで2万5千元〜6万元ほど。

話しついでに書くと、台湾人はよほどの写真好きと見え、結婚するでもないのに「婚沙撮影」店に出掛けて記念撮影する人が若い女性を中心に相当数いる。それも、ドレスを着てプロにヘアメイクしてもらい、まるでスターのようなポーズを決めてだ。画面にはシャもかかるし、修正も入るので誰でも「それなり」に仕上がることになっている。若い子が自分の自慢の写真を写真集にしたり、額にして飾ったりするのを見ると、本当に台湾人の欲望(スター願望)に対する素直さに感心してしまう。このように個人でお金を出して作った自分だけの写真集を「藝術照」という。

そういえば、私が台北で結婚披露宴をした時に、友人の女性二人が日本から出席してくれたので、ついでに「藝術照」を勧めたことがあった。二人が乗り気になったので、中国語が出来る日本人女性に頼んで撮影に付き添ってもらった。(私本人は親族の世話などで多忙の為同行していない) 彼女らが帰国した後に、私が店に出来あがった写真集を取りにいったのだが、これがまたインパクトのある仕上がりだった。チャイナドレスのショットは似合っていていい記念になるとは思ったが、ウエディングドレスを着込み指を頬にあてた「ニコちゃん」ポーズのショットはちょっとキツイ…。一人は既婚の子持ち、一人は独身だったが、どっちにしてもパートナーもなく一人だけのウエディングドレス姿なのだ。まぁ明らかにカメラマンの言いなりで撮ったことはわかるのだが。

さて実はこの話しにはまだ後日談がある。ともかくも出来あがった写真集を日本に送らなければならないが、折角の記念品を台北から送って途中で紛失しないかちょっと不安になった。ちょうどそんな時友人が日本に帰国すると言うので、持ち帰って日本国内から発送するようにしてもらった。ところが、この頼みを聞いてくれた友人が北海道の人で、かの地から発送してくれたのが珍事の発端。写真集は主役が留守の時に彼女の実家に届いた。ズシっと手応えのある小包を受け取った家族は、発送元が北海道であることを見ると「すわ、ナマモノか?」と思いその場でビリビリと包みを開けてしまったのだ。中から出てきたのは、嫁入り前の娘がウエディングドレスで「ニコちゃん」している写真。当然、写真集の主役は後から家族に「いったい何してるの?」と質問責めにあい、答えに窮することになった。(注記:私が結婚したのは4年ほど前のことだが、この僅かな期間に台北の「婚沙撮影」のレベルは格段にアップした。当時は私に言わせればドレスの趣味も悪く、ポーズもわざとらしいものが多かった。今はどの店も洗練され、グラビアのような自然で美しい仕上がりである。あぁ、たった4年前のものだというのに、今は自分の結婚アルバムが恥ずかしくて見れない…。)

話しを赤い爆弾に戻そう。小童から絨毯爆撃を受けた社内では早速対応策が検討された。祝儀は部署内でお金を出し合って一つにするという案も挙がったが、中には出席するので自分単独で包むという人もいて話しはなかなかまとまらなかった。ようやく出た結論は、希望者だけ合同で包んで、当日出席する人に持っていってもらうというもの。私もこれに一口乗って一件落着した。

…あれから2年近くの月日が流れた。この間私は小童と一度も会ったことはなかったが、つい先日留守中に彼から電話が入った。彼は電話に出た夫に「子供が生まれた」と言ったそうだが、一体どういうつもりなのか?単なる社交家か、それともお祝いが欲しいのか?よくわからないが、一つだけわかることは、恐らく彼は私の他にスゴイ数の知人に電話しまくっているだろうということだ。

「赤い爆弾を撒いた後はいよいよ宴」結婚と言えばわたくしごとで恐縮だが、今春我が妹(当然日本在住)が結婚する予定だ。仏教徒の家に育った妹だが、結婚式はイタリアのナントカ教会で彼と二人っきりで挙げるという。なんでも、そのナントカ教会で式を挙げると、日本の戸籍に「イタリア国方式により現地で挙式」と記載されるのだそうだ。最近珍しくなくなった「海外二人っきり挙式」だが、そう言えば台湾人が同様のことをした話しは今まで一度も聞いたことがない。また、式や披露宴を一切しなかったという人にも会ったことがない。ということは、台湾人はほとんど例外なく両家をあげて結婚式&披露宴をしているということになる。

では、どんなふうに行っているのだろう。結婚式については、台湾伝統式、原住民伝統式、キリスト教式、公証結婚式などが一般的である。台湾伝統式については、私も経験がないので詳しくないが、地方によってかなり習慣が違うらしい。基本的には、新郎側ご一行が新婦の家に派手な高級車(レンタルのベンツ)で迎えに行って、皆で湯圓(白玉)を食べたり、ご先祖を拝んだりするらしい。私自身は必要があって公証結婚をした。これは、地方裁判所で簡単な式をして、そこで出される結婚証明書を受理するものだ。(この証明がビザ申請時に要る)もしも、誰かに何の説明もなくこの結婚式の写真を見せたらどうなるだろう?なんだか「統一教会の合同結婚式」と誤解されそうで怖い。何しろ、何組ものカップルがずらっと会場に整列して挙式しているのだ。私たちはスーツ姿で参加したが、中にはウエディングドレス&タキシードで来たカップルも数組いた。

ところで裁判所というのは元来あんまりいい雰囲気の場所ではない。廊下には「家財差し押さえ請求」やら、「離婚調停」やらの手続きに来た険しい顔の人々が溢れていたが、そんな群衆の中を正装したカップルが長いベールを引きながら縫っていくのは奇妙な光景であった。まるで、暗黒の宇宙空間で幸せいっぱいの二人だけが、ぽっかりと浮き上がっているように見えたことを今でも憶えている。

さて、そんなこんなで遂に披露宴だ。今を遡ること4年と少し、私と夫は台北での披露宴をどうするか相談していた。
夫「ホテルやレストランでするのもいいけど、バントウが一番黒字になるよね…。」
私「ええ?!日本から両親や親戚も来るんだから、バントウだけは勘弁して!(ほとんど涙目)」
ここは泣きを入れてでも「バントウ」を阻止したかった。「バントウ」というのは台湾語だが、つまりは「どこでも宴会」で、路肩や農家の庭先などにテントを張ってその下で宴会をするものだ。それ専門の業者もある。田舎は今でもバントウの披露宴が多いらしいが、台北市内では最近めっきり少なくなった。(それでも葬式や選挙絡みのバントウは今だによく見かける)

確かに、コストの点から見ればバントウは一番安上がりだ。テーブルは折りたたみ式、椅子はプラスチック、テーブルクロスはポリエチレン(ゴミ袋と同じ)で簡便だ。最も台湾らしいスタイルと言えなくはないが、そんな事情を知らない日本の両親にイキナリ出席させたら、要らぬ心配をかけることは必至である。結局相談の末、ホテルで披露宴をすることに落ち着いた。だが、逆に招かれる客の立場であればバントウ披露宴に出席するのも悪くない。料理の味もレストランにひけをとらないし、なによりバントウ披露宴は気軽なので、近所のおじいさんや子供も多数やってくるのが賑やかで面白い。「ナガシ」(日本語が台湾語化した)と呼ばれるバンドが仮設舞台で演歌を演奏したり、最後はお客飛び入りカラオケ大会になったりする。南部の田舎では「ストリップショー」もあるらしいが、私はまだ見たことがないので残念だ。

ところでバントウと言うとチープなイメージを持っていた私だが、この考えは2001年陳総統の娘さんが結婚した時に覆された。彼らは台北ではホテル披露宴をしたが、総統のふるさと台南では小学校の体育館でバントウをした。(このように披露宴を、場所を変えて二回するケースもよくある) これがまた、生花を使った豪華な会場セッティングで、白いテーブルクロスも美しく、とても立派なものだった。台南の風土を配慮して、敢えてバントウにしたのだろう。(なにしろ台湾人でも田舎の人ほど、お高くとまった政治家が嫌いなのだ。)

さて、バントウの話しはここでひとまず終わりして、結婚披露宴そのものの本質に目を移そう。私だって日本でも何回か結婚式に出たことはある。それは仲人や上司の挨拶あり、キャンドルサービスあり、新郎新婦自らのカラオケ熱唱もありだった。まばゆいスポットライトも二人の動きを追っていた。それは、すなわち新郎新婦のハレ舞台であり、出席者も含めて全てが二人を盛りたてるように展開する。あくまで二人が主役、一世一代の大ステージと言える。一方、台湾の披露宴の本質は「請客」である。「請客」とは客にご馳走し、もてなすこと。田舎の披露宴でストリップショーを見せるのもひとつの「もてなし」の形なのだ。新郎新婦がお客に求めるのは(祝儀を除いては)どんな高級な会場でも「楽しく会食してもらうこと」だけである。余興も万歳三唱も白ネクタイも一切要求しない。「義理」の部分もあるにはあるが、その影は非常に薄い。そこで招待客はゼロプレッシャーの中、思い思いの服装でやって来る。

服装に関してだが、初めて台湾の結婚披露宴に出掛けた時には面食らった。その宴会はレストランで行われたが、事前に私はどんな服装で行くか大変に悩んだものだった。当時はまだ留学生の身分で、あまりキチンとした服も持っておらず、慌てて友人の裕福なマダムの所に行き、ブランドもののスーツを借りた。バックも大家さんから借り、完璧な装いで出掛けたのだが、会場についてみて呆然。入口をうろついているトレーナーにジーンズの女性はもしや出席者?そのとなりにいるジャンパー姿の男性も? そのまさかだった。とにかく気を取り直して会場入りしたが、中はなんとも騒然としていた。台湾の披露宴は席も別に決まってないので、「新婦友人卓へ」と大雑把に案内されただけで、結局私はトレーナーのお嬢さんの隣に空いている席を見つけて座った。

このように、結婚披露宴も会場によってフォーマル度にバラつきがある。バントウの場合、お客の服装は普段着にツッカケもありだ。レストランでもジャンパー姿容認、一流ホテルでやっと男性招待客全てがネクタイ着用となる。因みに先日、ハイアットホテルの披露宴でポロシャツ姿の男性を見かけたが、さすがに「いかがなものか…」と心中思った。だが服装もつまるところ祝いに来たお客の自由と認識されているのか、周囲は誰も特に気にとめていない様子だった。

ともかく、かように台湾の結婚披露宴は非常にフランクだ。日本人が初めて行くと拍子抜けしてしまうが、出席者としては至極気楽である。披露宴の主眼が、「二人のオンステージ」というより「客へのもてなし」なので、海外で二人っきりで挙式して済ませるようなカップルがいないのも頷ける。また、日本の披露宴で儲かるのは結婚式場だけだが、台湾では新婚夫婦が潤うというのも大いに理にかなっているように思う。もっとも、私個人としては日本式の結婚式と披露宴が好きである。自分が結婚する時はパスしたくせに出席するのが好きなのは、やはり格式ばった「非日常空間」があるからだ。おしゃれにも気合が入るし、ひとときすまし顔でセレモニーに没頭するのはいいものだ。台湾人の場合この「非日常空間」は、紹介した通り絢爛豪華な結婚写真の中に実現させているようである。披露宴に大勢の客を呼んで両家のメンツを立て、そこで出た黒字は新婚旅行や新居の準備にあて、新居の壁には「非日常空間」の写真をかけて何年でも楽しむ。まったく、この上もなく合理的だ。台湾で披露宴がこういうスタイルに定着したのもそれなりに理由があるのである。


6. 日本人と台湾人の会話

以下は全て私が台湾人と交わした会話の実録である。一般に台湾の10〜20代の日本に対する考えは、哈日族に代表されるように好感を持っている場合が多い。では、それ以外の世代はどうなのかという疑問についての、ひとつの答えが下記会話から見えてくるのではないだろうか。

会話1
夫は30代、血筋としては外省人だが、両親も幼い時に台湾に渡り、現在家族の会話は台湾語という、限りなく本省人に近い家の出身。特定の支持政党もなく、親日でも反日でもない。彼は「新ゴー宣 台湾論」を自分で買ってきた。
私「ねえ、その台湾論の内容どう思う?」
夫「日本統治時代のところは美化し過ぎだと思うけど、蒋介石の功罪とか色々と頷ける指摘もあるから、日本人が台湾を知るにはいい本だと思うよ。」
私「最近日本についての論議が白熱しているけど、私も周りの人にちょっと日本統治時代のことを聞いてみようかしら?」
夫「うーん、でも日本人の君が聞いたところで、本音は聞き出せないと思うよ。誰だってワザワザ日本の悪口を言って、不愉快にさせるようなことしないからね。」
私「反日って言ったって、日本も鉄道を引いたり、病院や学校を整備したりしたんだし、日本統治がなければ、今の台湾の発展はなかったんじゃないの?」
夫「うん、事実としてそれは認めるよ。でもそれは日本が台湾人の為にしたんじゃなくて、 日本の為にしたんじゃないのか?俺が小さい頃から聞いてきた大人達の話は、みんな日本統治時代の悪いことばかりで、良い話は聞いたことがないね。」
私「でもそれは、終戦後に国民党が台湾を束ねるために、故意に日本を悪者にしようとして教育してきたから、あなたもそう感じるだけなんじゃないの?」
夫「いや、そうかな?とにかく人から聞いた話は嫌な事ばかりだよ。君の言っていることはあくまでも日本の立場からで、台湾から見れば常に侵略された歴史だよ。」
私「侵略って?日本は台湾を直接攻めて植民地にした訳じゃないわよ。清が日本に負けて台湾を割譲したんでしょ?」
夫「でも、とにかく中国全体からすれば侵略された歴史だよ。でも台湾人はだからって、韓国人みたいにいつまでも恨みごとを言ったりはしないけどね。過去は過去、今は今さ。」

会話2
ご近所さんの林さんは60代、現在2人の孫を24時間態勢で世話している温厚なおじさま。小学校に上がる直前に終戦を迎えたが、親兄弟はみな日本語ペラペラという環境で育った。私とは育児仲間、アンチ国民党の客家人。遠慮がちに…。
私「あのう、マンガ台湾論論争とかありましたけど、実際林さんより上の世代の方は日本統治時代をどう思っているのでしょうね?」
林さん「うーん。それはちょっと一言では難しいね。まあ一般的に言うと、当時中産階級以上だった人達は、秩序ある生活が送れてけっこういい印象を持っているみたいだね。でも、農民層はみんな小作農として働かされていたから、すごく生活が苦しかったんだ。国民党の時代になってやっと農地解放されたから、そういう人達は日本統治をよく思わない人が多いみたいだよ。」
私「そうですか。でも、日本統治のお陰で、就学率が90%以上になったと言われていてますよね。」
林さん「あのね、当時小学校には日本人が行く『小学校』と台湾人が行く『公学校』という2種類があってね、台湾人はよっぽど強力なコネがない限り小学校へは行けなかったんだ。普通の台湾人は公学校へ行ったんだけど、こっちの方はそんなに就学率が高いわけないね。名簿上に名前だけはあったかも知れないけど、みんな貧しい上に兄弟が沢山いて学校なんか行けない子が多かったよ。」

以上、なんだかわかったようなわからないような話だった。釈然としない気分のまま、私はその後も夫の忠告を入れず、年配の台湾人に日本時代について聞いてみたりしたが、やはり「まあ、色々とあったね」とかわされたりした。そんなある日(2001年4月)、NHKの「アジアWho’S Who」という番組を見て、やっといくらか納得出来た。番組は台湾にある日本語研究会「友愛の会」の活動を紹介するもので、会員は日本統治時代に日本語教育を受けた人達だ。皆今の日本の若い子が足元にも及ばないような美しいアクセントで日本語を話し、今でも日本語が第一言語である人が多い。番組の最後にその中の二人が、こう話していた。「私達は日本統治時代を過ごして来て、やはりあの時代に思い入れがありますよ。」
「でもそれは好きだというのとは違うのね。日本人には『台湾人はにんにく食べるから臭い』とか色々言われたんですよ。」
「でも私の最大の幸福はね。日本語を学んで、今その日本語で日本の悪口を言えることですよ。」

「友愛の会」の会員は流暢な日本語が話せるところから考えて、恐らく中産階級以上の出身なのだろう。それはそれとしても、なるほど、当時台湾人は確かに色々嫌な思いもしたのだろう。けれども、この世代は好む好まざるにかかわらず日本の影響を色濃く受け、日本語のみならず多分に日本的なものを身につけているのだなと合点がいった。だからこそ、思い入れがありながらも、悪口を言いたいという複雑な気持ちがあるようだ。やはり確かに日本人の若造がちょっと聞いたところで、この世代の気持ちを聞き出すことは難しいと思った。それにしても、台湾人は不愉快な過去がありながらも「日本のここは良い」と素直に言う。たとえその中に客に対するリップサービスがあるにしても、そう言えるのはある意味度量が広いといえるのではないだろうか?(戦後国民党が、日本を悪役に仕立てたにもかかわらず)それは、台湾人が大らかなのか、それとも日本統治が成功したからなのか、はたまた、あまりに遠い過去のことだからなのか?もしかしたら、全ての要因がミックスされた結果なのかもしれない。


5. 台湾に惹かれる日本人

最近、35歳の男性読者から「台湾で暮らしたいのでアドバイスを」というメールをもらった。それを読んですぐ思い出したのは、6年前こと。やはり当時35歳の日本人男性が私を訪ねてきて、同じく「台湾で暮らしたい」と助言を求めてきたことがあった。(この人は夢を果たし、現在も台湾在住)。この二人が、台湾をとても気に入っていることはわかるのだが、いったいどうして生活基盤のある日本を離れてまで住みたいのか、今日までじっくり話す機会がなくて私も実際のところはよくわからない。だが「もうあんまり日本にいたくないのかな?」と思ったりする。誰もが人目を気にせず好き勝手に生きているような台湾に日本人が惹きつけられるということは、反対に日本にそういった伸びやかさ欠けているのではないだろうか。

と言うのも私自身、東京というシステマティックな大都市があまり好きではなかったからだ(たまに来るのが一番いい)。かと言って当初は特に台湾好きというわけではなかったのだが、ちょうど当時勤めていた所が倒産しそうになり、台湾の日本語学校を紹介してくれる人があったので、ひょいと来てしまった。だから正直なところ条件が揃えば、北京でも香港でもよかった。そんな私も今は縁あって台湾人と所帯を持ち、台湾には愛着を持っていると言ってよい。けれど、私が台湾礼賛一辺倒の考えではないことは、当メルマガ読者であれば既にご存知のことであろう。

さて、ここで「台湾に惹かれる日本人」というテーマにもとづいて、私は台湾と向き合っている自分の心の扉を開けてみる。まっすぐに下に伸びた階段を一段一段降りてゆくと、無意識に到達するちょっと手前のところにモヤのかかった一帯がある。その濃いモヤを両手で払うと、あんまり見たくないものが浮き上がってくる。それは「優越感」という三文字。例えば、親子で歩道を歩いていて、フイに歩道をバイバリ走って来るバイクにぶつかりそうになった時。あるいは、犬の糞だらけの路を歩く時。分別用のゴミ箱に、めちゃくちゃに押し込まれたゴミを見かけた時。私の中にむくむくと怒りがこみ上げてくる。この憤慨の後ろにひっそりと張りついているもの、それが日本人としての台湾に対する優越感だ。私は技術者ではないので、先進技術の優劣についてはあまりわからないが、こと公共心、環境保護意識、生活マナーについては、やはり台湾は日本にまだまだ及ばないと思う。確かに私の理性は、「アジア蔑視」などしてはいけないと叫ぶ。自分が蔑視感情を持っているとも認めたくない。だが、私を含め台湾の土を踏んだ日本人の内、何人が「自分はそんな優越感さえ一切持っていない」と言いきれるだろうか?

その一方で、現代日本人は高度経済発達した社会の中で方向性を失い、自分がどこへ向かおうとしているのか、見失い始めている。日本が沈没するのではと不安を深めてもがく日本人が、台湾で出会うものは何だろう?台湾人は素直に日本の先進的なところを評価し、日本人の礼儀正しいことを誉める。最近増えてきた「台湾が好き」という日本人の声を聞ききながら、ここまで問題を掘り下げてくると、私にはひとつの疑念が浮かんでくる。密かにアジアに対する優越感を持つ日本人が、台湾に来て自尊心を満足させるということはないのか?自信を失っていた日本人が、この国へ来て肯定され、自信回復してしまうのではないか?ここに、私という日本人の傲慢さを誰よりも感じている台湾人がいる。私の夫だ。だが実は、夫にとっては私のケチな優越感など、とるに足らないことなのだ。なぜなら、彼は台湾と自分自身に非常に強い自信を持っているから。以下は夫の弁。「日本は確かによいところがたくさんあるけど、それは集団でこそ発揮できる力さ。もし会社から離れた日本人と台湾人が一対一になったらどうだい?サバイバル能力では絶対にこっちのほうが上だね。これからの中国進出は、台湾がカギだ。大陸人を最も知っていて、裏の手だって使える台湾人と組まなければ、日本人も欧米人も絶対にうまくいかない。台湾が経済的に日本に追いつくのも時間の問題だね。」 断っておくが、夫は別に国粋主義者でも、民進党支持者でもない。ただ、台湾人らしい現実合理主義者なだけである。こんなふうに考えているのは何も夫ばかりではなく、台湾人の多くがそうだ、というのが私の観察だ。

台湾人の行動は、高いプライドに支えられている。受け入れると言うよりは、利用するという言葉がぴったりである。だから結論としては、日本人が密かに優越感を持とうが見下そうが、台湾人はいっこうに気にしない。すると、こういうふうに言う人もいるかもしれない。「いやいや、私は何も見下すなんて…。ただほら、台湾って親日的でしょ?」その言葉を頭ごなしに否定する気は私もない。だが、いったい台湾の誰がどう親日的なのかもう少し探ってみたい。

まず、日本統治を経験した本省人は親日的な人が多い(ただし、反日感情を持っている人もいることは「日本人と台湾人の会話」で既に書いた)。なにしろ昔は自分も「日本人」だったのだから、彼らが本当に日本の心を理解しているのは間違いないだろう。だが、彼らが好むのは思い出の中の古きよき日本であり、現代日本とは大きな差があることは否めない。同じ戦中派でも、大陸で抗日戦争を繰り広げた国民党勢力=外省人は反日感情を持っている人が中心だ。だから、小林よしのり氏の「台湾論」に攻撃ののろしを上げたのは主にこの外省人と外省人が牛耳るメディア(地上波テレビと二大新聞)だった。(その後この論争は、反日外省人VS抑圧を受け続けてきた本省人の争いに変質した。)

さて、外省人が反日なのは仕方ないとして、戦中派本省人の子女たちはそのまんま親日なのかといえば、ことはそう簡単ではない。戦後国民党により行われた歴史教育は、国民党に都合のよいように彼らに「反日」と「国民党支持」の思想を植え付けてきた。以下に1999年2月28日 台湾日報よりその世代の声を紹介しよう。「私が受けた歴史教育は反日の歴史教育であり、それにより私は子供の頃から父の親日感情を嫌い拒否してきた。その為非常に長い間私は父とうまくコミュニケーションがとれなかったが、大人になった後、少しずつ歴史の真相を知るようになり、日本統治時代の真実の状況を理解するようになった。だが私がやっと「日本精神」の四文字が父に与えた影響と意義を理解できた時、父は既にこの世の人ではなかった。間違った歴史教育が私に残した傷と遺憾は、今ではもうとりかえしがつかない。」王美e/TNT電台理事

彼らの「反日」マインドコントロールが、現在完全に解けたかどうかは疑問の残るところだが、彼らは実際に好むと好まざるとにかかわらずビジネスで日本と付き合ってきた。およそ20年ほど前までは「メイド イン ジャパン製品」は台湾人の憧れの的だったので、親日ならぬ「親日本製品」世代とも言える。そして更に年齢が下がり、10代から20代の若者たちに見られたのが「哈日」(日本好き)現象だ。現在は沈静化しているものの、日本のテレビ番組や漫画は今もって根強い人気がある。だが、これも本当の親日と言えるのか甚だ疑問だ。若者たちが愛しているのは日本のサブカルチャーであり、彼らにとってやはり「日本」は消費の対象に過ぎない。

今は日本人に好感を持っているが、もしこの先「日本」が消費価値のないものとなったらそっぽを向いてしまう層である。結局、日本から50年以上前の台湾統治の思い出と日本製品を除いたら、どれだけの台湾人が「親日」でいてくれるのか?つまり台湾に漂う「親日」の空気は堅固なものではなく、風向きによってすぐ揺らいでしまうものだということを日本人は知っておいたほうがよい。日本に限らずどこから来た人でも、客ならば手厚くもてなし、その長所を誉め称えるのが台湾の流儀であり、台湾人は別に日本を崇拝しているわけではないのだ。

だが、何だかそこのところを勘違いしている人がいるようである。友人の王小姐には以前、U子という日本人のルームメイトがいた。王小姐は彼女を新竹の実家に泊めたり、カラオケや食事など色んな所に連れていったが、U子嬢は手土産も持たないどころか、どこでも当然のようにお金を払わなかった。U子嬢は「台湾人はみんなおごってくれるもの」と思っているらしいが、これは大間違いだ。台湾人の「おごり」はもちまわり制、ビジネスの接待でない限り、今日おごってもらったら次回はこちらがおごるのが礼儀だ。その他、台湾の取引先に当然のごとく日本語対応を求める日本人など、同じ国の者として恥ずかしいと思う人間はかなりいる。日本人の心の中に巣食う欺瞞を完全に払拭することは難しいかもしれない。だが、せめて自分にそういう気持ちがあるかどうか疑ってみる必要はあるだろう。

「台湾が好き」だと思う気持ちの向こうに目を凝らすと、様々なものが見えてくる。台湾に対する優越感、日本からの逃避願望、自信の喪失と回復、ゲテモノ見たさの好奇心、台湾が持つ自由と活気への羨望、台湾人の寛容さに包まれたい甘え、等など。私の中には全てある。それを自覚した上で、台湾の人々に感謝しながら節度をもって暮らしてゆきたいと思っている。あなたの心の中にはないだろうか?こんな気持ちが。


4. すばらしき我が家の食卓

ピーマンの肉詰めをムショウに食べたい時というのがある。ハンバーグじゃなくて、肉団子じゃなくて、ピーマンの肉詰めだ。そこで私は早速市場で豚ひき肉とピーマンを求めた。そう、あれは新婚の頃のことである。

買って来たひき肉をボールに入れ、タネをつくってピーマンを手に取る。小さな私の手には一個しか載せられないほどのサイズだ。それを半分に割り、内側に小麦粉をふってタネを詰める。大人二人分のタネを用意したはずだったが、そのタネはピーマン一個分にすべて収まってしまった。普通この辺りでことの異常さに気づくべきだが、食べ物にとり憑かれた人間というのはもはや正気ではないので、その時の私には全く気にならなかった。そして油。いつもの要領でフライパンに2センチくらい油を入れて加熱し、ブツを投入。ピーマンが油にヒタヒタに浸かるぐらいの…?って、浸かってないね…ピーマン。異常に大きなピーマンが油から頭ひとつどころか全身はみ出している。ちょっと油を足してみたが、それでも思いっきりはみ出している。仕方なく、火を極限まで弱めて気ながーに焦げる寸前まで転がし続けた。もうこれ以上は限界というところまで粘ったところで油から引き上げ、箸でお肉の部分をつついてみたが…案の定、生焼け!厚さ五ミリはある台湾ピーマンの断熱効果は高かった。そこで、やむを得ずラップをかけて電子レンジへ。苦節一時間、ようやっと完成だ。早速、夫の帰宅を待って夕食。食卓にはドテッ腹に大穴の開いたピーマンの肉詰めである。レンジ加熱の際に肉離れ(?)を起こし、肉とピーマンがばっちり分離しているところがニューウェーブ。だが夫はこの「変な形の巨大肉団子と揚げたピーマン」を文句も言わずに食べた。それは彼が優しいからと言うより、そもそも彼が「ピーマンの肉詰め」という料理のイメージを持っていないので、文句のつけようがなかったからである。

あれから4年以上の歳月が流れ、以後私は一回もピーマンの肉詰めを作っていない。では、日本人妻であり母でもある私は日々どのような食事をつくり、家族に食べさせているのか?ちょっと想像していただきたい。私の生活圏は日本人が集中している天母ではなく、古い住宅街である。日常の買い物は、台湾系のスーパーと露店が立ち並ぶ市場で済ます。別に「さしみ」が買いたいなどと高望みはしていないが、日本で馴染みの食材を探すのもけっこう難しい。まず鶏ひき肉、牛ひき肉(鶏モモや牛塊肉はある)が手に入らないので、ハンバーグやつくね、鶏そぼろは作れない。干物一切と塩鮭が売ってないのは仕方ないとしても、生さば、鯵、ブリ、など脂が美味しい魚も見かけない。ご飯のお供、タラコやスジコも手に入らないので、オニギリに何を入れたらいいか困る。(もっとも、こちらの米は粘り気が少なくて、握るのも困難だ)

そう言えばこの前、本当に珍しく新鮮なイワシが売っていたので早速買って煮付けにしてみたが、脂がなくてバッサバサだった。既に以前のメルマガでも書いたが、台湾の市場で見かける魚は殆ど南海ものなので、身もしまってないし、脂ものっていない。魚屋は名も知らぬ魚のオンパレードだが、日本語名がある魚もなくはない。生鮭、タラ、カジキ、秋刀魚はいいとしても、たち魚やハタは主婦に料理できるもの?まぁ気をとりなおして、野菜でお料理。日本の実家の定番メニュー、ナスの味噌炒めを作るべし。材料を全部フライパンに入れて炒めればいいだけのはずが、ナスの正体がみるみるなくなり、べっちょりペースト状態になってしまった。台湾で焼きナスは作ったことがないが、この肉質では無理だろう。無駄な努力はしまい。見かけは立派なくせに(一本40センチもある)、ふがいない台湾ナスである。でも値段だけは安い。昨日一本買ったらたったの9元だった。因みにインゲン豆もキュウリも2種類あって、ひとつは日本と同じサイズだが、もう一種は巨大で(インゲン一本が全長40〜50センチ、キュウリ一本が女性の二の腕サイズ)、私は怖くて今まで一度も買ったことがない。

それから私が時々食べたくなる野菜料理に「里芋の煮っ転がし」や「炒り鳥」というのがあるが、これをつくるにも障害が多い。まず里芋がめったに売っていない。冬に街頭で焼き芋のごとく「蒸かし里芋」を売っているのに出くわすこともあるが、通常、生のものは市場でほとんど見かけない。また炒り鳥には、やはりレンコンとゴボウを入れたいが、これが日本のスーパーみたいにチマチマした量では売ってくれないのだ。レンコンなら4フシぐらい、ゴボウも(あまり売っていないが)長いの一本でなきゃダメだ。青野菜も中国野菜が中心だから炒めるしか食べようがないのが現実。日本のカブや小松菜の優しい味が懐かしい。

さてここまで肉、魚、野菜と食材事情を概観したが、その他で一番の不満と言えば豆腐がヤッコで食べるにはまずすぎることだ。大豆の風味ゼロで、ヤッコで食べるならピータンでも入れなきゃ味がなくて食べられない。これ程までに日本的食材の調達に不便で、しかも夫が台湾人となれば、自然我が家の食卓は中華にシフトしてくる。だが、所詮は日本人が作る「なんちゃって中華」だ。我ながら大して美味しくないと思う。というのも、濃い味と油っこいのがイヤな私は味付けに思いきりが足りない。以前、友人のE子(Vol.45「21人家族長男の嫁」のヒロイン)に手製の「豚の醤油煮」をご馳走したら彼女に「味にパンチがない」と評された。その上、私はそもそも料理に時間をかけるぐらいだったら、その分本を読んだり書き物をしていたいタチなので味に進歩が見られない。どうりで、日本で嫁の貰い手がなかったはずである。ただし、家の片付けは好きだ。(自己弁護)

ところでこれも新婚当時のこと。姑の家に行った際に「三日も水に浸けてもどしたの、料理してウチの息子に食べさせてね」と「夫の好物」なる食材を手渡されたことがあった。タッパの中には水にたゆたう干しナマコみっつ…。ナマコの料理法はさすがに手持ちの虎の巻「毎日のおかず1000(主婦と生活社刊)」にも記載がない。結局このナマコは夫が料理したが、鍋の中に醤油を入れた瞬間、ナマコが脱水症状を起こしてメチャクチャ縮み、どうしようもなくまずかった。そんなお寒い我が家の食卓でも、夫に好評を博している中華メニューがある。麻婆豆腐だ。なぜってそれは、私の豆腐を切る腕もさることながら、スーパーで売っている「ハウス麻婆豆腐の素」の力である。しかしなぜ台湾のスーパーに「ハウス」があるのか?それは、もちろん台湾にこのような製品がないからである。私が日本に帰ると買いだめするのはクックドゥの「回鍋肉(ホイコーロウ)の素」や「青椒肉絲(チンジャオロースー)の素」だ。

私のような台湾暮らしの者は、日本のスーパーで「ナントカの素」や様々な冷凍野菜や、キンピラ用に切ってあるゴボウなどが売られているのを見るにつけウットリしてしまう。この点では日本の主婦が羨ましい。こんなに便利なものが台湾に売っていない所以(ゆえん)は、つまり台湾には「料理上手な人」と「料理をしない人」の2種類の人間しかいないからだ。私のように「料理が下手、あるいは時間がないが料理する人」というのが極めて少ない。ベテラン主婦はチマキでも、中華まんでも自分で作るが、若い主婦はお勤めに忙しくて子供に三食外食させたりするのも珍しくない。このように事情は非常に二極分化しているが、そうなるのも無理からぬところがある。例えば、中華料理に旨みを添えるラード。これがどこを探しても売っていない。信じられないことに、この国でラードは自分で肉屋から豚の脂身を買い、それを鍋で煮て作るものなのだ。そんなことを、育児や仕事に忙しい主婦がやっていられようか?街では弁当が一個40元〜100元で買えるというのにだ。この先30年くらいしたら自炊家庭は絶滅の危機を迎えるかもしれない。

ここまで読んでいただければおわかりのように、台湾の家庭の味は主にベテラン主婦によって守られている。よって、バリエーションは中華ばかりだ。当然ハンバーグやグラタンなんてこじゃれたものは家庭では食べない。台湾の家庭は本当に毎日炒め物とか油焼きとか、油モノばかりつくって食べている。漬物にさえ、しょっちゅうゴマ油がかかっているのが私にはツライ。なお通常、日本人がイメージする中華料理は「酢豚」とか「八宝菜」とか、野菜がとりどり入っていて豊かなものだが、ああいったものは基本的にこちらではレストランで食べるものだ。実際の台湾家庭料理はもっと素朴なものである。チンゲン菜ならただそれだけをニンニクで炒めて一皿。豚ならぶつ切りだけをそのまま醤油煮にして一品。魚も一匹油焼きにしてそれで終わりなんていう単純メニューがかなり多い。炒める材料もせいぜい2種類というのが一般的である。(例:ハマグリとヘチマ、ザーサイと豚肉、青菜とシラス等)しかも、毎日メインに肉料理と魚料理が同時に並ぶ生活習慣病一直線メニューだ。だがたとえ単純素朴ではあっても、家庭料理は栄養豊富で衛生的なのが魅力である。では、私も下手ながら今日も家族の為、自分の為に「味にパンチのきいていない」料理をつくることにしよう。(注:上に挙げた手に入らない食材の一部は、日系デパートやスーパーに行けば買える。但し、日本よりも相当に割高。)


3. 働く皆さん

最近ある読者から台湾の就職事情について尋ねられた。返事を書いているうちに脳裏に浮かんできたのが、子供のとき見たNHK教育チャンネルの「働くおじさん」という番組だ。 この番組はタンちゃんと愛犬ペロくんのコンビが、大人の職場を訪問するというもので、私が小学生の時分いつも楽しみにしていた番組だった。毎回彼らが、八百屋さんの一日を追ったり、パン工場を見学したりしていて、子供心にも働くお父さんたちは偉いなと感心したものだった。今は時代も移り、働いているのはおじさんだけではなく、おばさんや、お嬢さんもいるので、番組タイトルとしては「働く皆さん」にしないとダメかなと思ったりもする。

それはさておき、台湾のおじさんの中にはこの「働くおじさん」に出演が難しい人が結構いる。何らかの活動を行い収入を得ているという点で、失業とは言えないが、フリーターとも言えないような人達だ。フリーターは不安定な身分ながら、一応雇用主と雇用契約を結んだ関係だが、どうも台湾にはフリーターと分類されるような人達は極めて少ない。例えば育児仲間のある一家は、奥さんが専業主婦で、ご主人は「株転がし」を生業としている。「株転がし」は投資信託とは違う。人のお金を預かって運用するわけではなく、純粋に自分の貯蓄を株式に投入して利ざやを稼ぎ、それだけで家族3人食べているのだ。

台湾の有線テレビは、株式市場の変動を一覧表の形でずっと流している局がいくつかあるし、自称専門家が株式分析をエンエン講釈している番組もある。また、インターネットサービスはもっと進んでおり、リアルタイムで株値の変動グラフがニョキニョキ画面に表れる。あらゆる銘柄の分析もクリック一発、それを見て電話で売買をオーダーすればよいことになっている。従って、本来株の運用に外出する必要ないが、ご主人は毎日証券会社に出かける。証券会社の店先は、「号子ハオズ」と呼ばれる。様子は日本とそう大差なく、壁一杯に並んだモニターに株値の変動が映し出されている。その前の椅子にはおじさんおばさんが大勢いて、情報交換に忙しい。台湾の株式市場はこのような個人資本の投資が多い。その為、政治家のちょっとした発言や、噂、ムードなどでも株価が大きく左右されてしまう。彼はここで情報を仕入れて株を運用するという。奥さんによると、ご主人は以前色々な事業を起こそうと試みたが全て失敗し、年齢も上がった今は専門知識や資格等もないため就職が難しく、結局「株転がし」で食べていくことに落ち着いたと言う。台湾は貧富の差が激しく、大金持ちで株転がしだけしているという人もいるが、一般庶民でもこういった人がいるのがこの国の面白いところだ。

因みに台湾の株式は、日本と同じく長期間価格が低迷している。そこへ2001年9月11日の米国同時多発テロ事件でまた暴落、株価指数は3700点にまで下がり1993年以来の低水準になった。彼ら一家も苦しい日々が続いているが、夫婦ともに敬虔なキリスト教徒で、「すべては主のおぼし召し」と受けとめているようである。私の印象では台湾においてこのような人はそんなに特別ではない。他にも色んな人に出会った。ネットワーク商法だけで生活している人とか、よくわからない投資話をまとめて、出来高で報酬をもらっているフリーの人もいる。夫のおじはコックだが、露店を出したり、店に勤めたり、またそれを辞めて無職になったりを繰り返している。一番多いのが友人とお金を出し合って何か店を始めるケース。しかし、それも勝負期間が短くて、ダメなら半年で店じまいだ。

そんな「働くおじさん」出演困難な人々と対極にいるのが、高学歴エリートサラリーマンだ。そう言う人達は、私の以前の会社には掃いて捨てるほどいた。まず話の舞台であるS社について少し描写しておこう。私が昨年まで勤めていたS社はある自動車ブランドの台湾総代理。この会社の総経理室秘書組に籍を置いていたが、日本風に言えば社長室秘書課だ。この総経理室には、秘書課の他に経営企画組があり、会社の中長期経営企画や株式店頭公開準備、ISO申請準備等にあたっていた。総経理室の長はI経理(経理とは部長ぐらいのポスト)で、日本の商社から来た駐在員だった。I氏はさすが一流会社社員と頷けるとても優秀な人だったが、日本人らしくその仕事に対する姿勢は真摯で手抜きがなかった。その点で社内に摩擦が生じたことは否めないが、部下を育てようという気持ちがとても強かった。I氏は一流大学の修士過程を終了したエリートばかりを採用し、毎日何時間もの時を部下とのミーティングに費やして、人材育成に力を入れていた。私は彼ほど職人カタギの人はいないと理解していた。赴任早々「S社の給料が安すぎて人材が逃げる」と幹部に訴え、ベースアップを勝ち取ったのはI氏だった。本人は東京本社から給料をもらっているので、自分の懐とは直接関係ないにもかかわらずだ。

またある時、会社にリストラの嵐が吹き荒れ、各部署とも数人の犠牲者を出すように指示があった時も、I氏は断固として拒否し、結局総経理室スタッフ全員を守りきった。(台湾の会社のリストラは日本よりもっと情け容赦がなく、数ヶ月分の給与を退職金として渡して1ヶ月以内にハイさよならだ。)だがしかし、I氏の努力も虚しくエリート社員はどんどん辞めていった。(配置換え希望者も含む)それも高学歴のものほどあっさり辞めた。入社1週間以内に辞めた者も一人ではなかった。だいたい1年〜2年でスタッフ総入れ替え状態になったが、それはI氏の責任ではない。(これが総務部庶務課あたりだとまた話しは別だ。庶務のメンバーは、他社に移ると待遇が下がるのが明白なので動かない。)学歴偏重の台湾では高学歴の者は就職に困らない。当然彼らの念頭にあるのは「より面白い仕事」「新しい経験が積める仕事」を探すことだ。彼らも、転職に年齢制限があることを知っている。だから若いうちに、華やかなキャリアを積み、出来るだけ多くのものを吸収して、最終的にはそこそこの年齢で大企業に自分を高く売るか、もしくは独立起業するつもりなのだ。

さて話しを冒頭の読者問い合わせに戻す。この読者は人材派遣業で、台湾での商機について尋ねてきたのだが、この話しを夫にするとすぐにこんなことを言った。「それだったら、人材派遣業の友人が最近独立して会社を始めたから紹介しなよ。業務提携すればいい。」日本の大企業が、しかるべきツテもない人間を相手にするはずがないので私はただこれを黙って聞いていたが、これこそまったく台湾らしい。ちょっとの繋がりでも辿って辿って、強引に人脈を作り商売に持ち込もうとする逞しさ。そして、独立というのもいかにもだ。この友人というのもきっと、社員として在籍している間にそのノウハウと顧客との人脈を掌握し、それをそっくり持ち出して起業したに違いない。台湾で会社を経営する際、この辺が雇用主の頭痛のタネである。

さて、ここでコネ手繰りの実例を読者Macさんのメールから引用しよう。「ある日、台湾に駐在している知人(アメリカ人:A氏)から電話が掛かってきた。A氏「W.L.という女性を知っているか?」 Mac 「は?」(聞いたことがないでもないが...) なんでも、求人に応じて自分を売り込みに来たという。その経歴に「自分の力量はMacという公的資格を有する日本人の保証付き」とあったので、問い合わせてみたということであった。私が発信したメールのハードコピーが添えてあるという。思い出した!そう言えば以前仕事で若干のやりとりをしたことがあったっけ。非常に仕事熱心で、時々メールで教えを乞いに来た。こちらも丁寧に応対した。私のメールには「もう立派に通用する」なんてことが書いてあったそうな。これは外交辞令である。熱心に教わりに来た人を励ましていただけなのである。でも、W.L.嬢はそれをうまく利用した。大したもんである。これも才覚、しっかり働いているそうである。」

台湾では望みどおりの就職をする為、粉飾スレスレの自己アピールをするのが普通なので、採用側もそれを計算に入れなければならないということだ。しかし、希望の会社に入ってからが、サラリーマンの正念場だ。S社の話しだが、私が入社した当初、重役級のポストである協理の△氏(台湾人)付き秘書ということになった。この△氏は、ライバル会社に勤めていたが自分でS社に応募していきなり重役職についたらしかった。彼のウリは日本語、英語、北京語、台湾語の4言語が話せるということだったが、悲しいかな本当にそれだけしか出来なかった。無能な者(縁故者は別格)を、高い給料を払って雇う温情は台湾の会社にはない。(日本では、無能だが高給を食んでいる人を数多く見てきた。)△氏はS社で辛酸を舐めた。同社は数ヶ月ごとに人事異動がある落ち着かない会社だったが、△氏は異動のたびに降格していった。いったい何段落ちしたか今はもうよく思い出せないが、秘書にお茶を入れてもらう身分だったのが、あっという間に自分で入れることになり、やがて部下もいない役職になり、ついには宙に浮いた△氏の席をどこにするか社内で討論されるまでになってしまった。おとなしい性格の△氏もメンツまる潰れで自主退職せざるを得なくなったが、この間わずか1年余りだったと記憶する。

だが、災難は△氏にだけ降りかかるわけではない。台湾には独特な「試用期間」という制度がある。通常入社後3ヶ月だが、この期間は給料が少し安く設定される場合が多い。そしてこの期間様子を見て、使いモノにならなければ即解雇だ。そもそも台湾の会社には、入社式などないし、新入社員教育も日本ほどにはなされていない。だから会社に入れてから会計やマーケティングを仕込むという日本式長期人材育成は行わない。大学等でもう既にそれらのことを学んだと称する学生を採って仕事をやらせる。また新入社員側も大学時代の専攻分野で勝負しないと、試用期間を乗り切れないという事情がある。それにしても、会社側と社員側双方とも思考のスパンが、日本より極端に短い。会社は数ヶ月〜1、2年という短い時間に、目に見える働きをするよう社員に要求する。当然仕事をじっくり丁寧にやっている場合ではない。どんな仕事も短期間のうちにとにかく格好をつけて上司に見せなければならないわわけだ。管理職だって、もしS社直属の社員なら日本人のI氏のように人材育成なんて気の長い仕事をしていられない。そんなことに時間を割いていたら自分の業績にならないし、業績が上がらなければ即降格、次にはリストラが待っている。

では、台湾の会社ではどんな人が出世するのだろう。まず一つのタイプとしては、他の人にはない緻密さを持った人。上記の生存競争下にあっては通常皆「やっつけ仕事」になってしまうが、その中にあっても上司を唸らせる程にきめ細かな仕事をしてみせる人だ。そしてもう一つが、ハッタリがうまいパフォーマー、その典型が張氏だ。彼はS社で△氏と入れ替わるようにグングン昇進した。会議では「自分はやっている」とアピールする積極的な発言と、歯切れのよい受け答えをする。その実はザルのような仕事振りで、時々トンチンカンな指示を出し、周りにとっては迷惑極まりない。

会社の体制がそうなら、新入社員側だって負けてはいない。通常フリーターなんて待遇の悪い雇用形態は皆マッピラご免。給料がいい正社員として入るのは当然だ。しかし年金制度がきちんと確立されていない台湾では、耐えがたきを耐えても会社に勤め続ける利点が少ない。(定年退職した場合、老後の頼りは退職金だけだが、これももし会社が倒産したら全て水の泡だ。)それに会社に入っても、いつリストラされるかわからないから、自分だってイヤになったら義理も職業道徳もかなぐり捨てて辞めてしまう。「ウチの会社」などという帰属意識など育つわけがない。だがその前に社員としてのメリットだけは出来るだけ得ておくあたりぬかりなく、会社絡みで何か教育訓練を受られるなら、どんどん参加して次の転職に備えるのだ。

ここでもう一度、Macさんの驚きの声を紹介しよう。「D社のT氏は内省人ですが、所帯持ちのアンチャンです。T氏は私共と一緒に仕事をしてきましたが、プロジェクトが進んで彼はサテライトオフィスに異動を命じられました。通勤が不便になると言う理由でゴネている間に集集の地震が起き、職を得て退職していきました。D社は仕方なく別の社員を派遣しました。 今年D社に足を運んでみるとT氏がいるではありませんか! なんでも、転職先の仕事が一段落し、D社でも異動の懸念がなくなったので再就職したとのこと。これって、普通? 受け入れたD社も普通?」実にこれはまったく普通のことだ。台湾のサラリーマンはそのほとんどが「ヤドカリ」である。他の貝殻=会社を試してみて、合わなければまた元の貝殻に戻ることもあり得る。会社側も、即戦力になる人材を、受け入れない理由はないし、他の人を雇ったところで、せっかく仕込んでも「すぐ辞める」可能性があるのは同じなのだ。パスポート闇売買の話の主人公楊さんも、在籍している会社を過去二回辞めており、現在は三回目の入社だ。

そんな台湾の会社と取引をする日本企業は、まず「担当者がすぐかわり、引継ぎも満足に為されない」という状況を常に仮想して仕事をする必要がある。プロジェクトに関する資料は台湾企業側が保管すべき場合であったとしても、こちらでも全て保存するに越したことはない。それをしないと、台湾企業側の担当者がかわる度に「資料が見つからない」などという理由で大いに時間的ロスを出すことになる。結局台湾人にとっては「就職は就社にあらず」である。もちろん、皆が皆、バカスカ転職しているわけではない。一箇所に長く勤めている人々もいるが、そういう人は以下のいずれかに当てはまるだろう。
1、 公務員
2、 性格的に変化を好まない
3、 他社に移れるスキルがない
4、 年齢が高い
5、 会社の待遇が極端によい(または会社が自宅から近い)
6、既にその会社で出世コースにのった

こうやって見てみると、雇用主からすれば会社に長く残る人がすべて良い人材とも言えないようだ。したがって新規に応募してきた入社希望者を、過去の職歴の短さを理由にハネてしまっていいものか、痛し痒しといったところだ。しかたなく「今」使えるかどうかという点だけで、採用を決定さぜるを得ないので、常に長期的見通しの立たない人事になりがちだ。だがそもそも、終身雇用制度が過去に一度でも確立したことのある国が、そして現在、たとえそれが崩れたにしても、未だにその影を色濃く引きずっている国が日本以外にあるだろうか?世界的に見ると、日本の雇用形態の方が特殊なのでは?という疑問も浮かぶ。


2. お金のゆくえ

ある日、育児友達の謝小姐が小さなため息をついた。聞けばご主人の実家が株で大穴を開けたと言う。そこで私は彼女を励まそうと、我が家の事情を語った。

私「株で損するなんてよくあることよねー。ウチの舅なんて、株と変な投資でマンションふたつ、スっちゃたわよ。」 いったいウチの舅(台湾人)はいつどうやってそんな大損したのか?ちょっとここで、過去の台湾上場株式市場概況を紹介しよう。ネットで株関係の資料を探すと、いやもう出てくる出てくる、洪水のようだ。その資料の洪水を掻き分けてやっと見つけた統計によると…。(台湾株価の推移は通常、加権指数という数字で表される。以下の数字は加権指数)
1986年01月   839.73
1990年02月  12495.34(過去最高)
1990年10月   2560.47

おわかりだろうか?この数字は嘘ではない。1986年にたったの839.73ポイントだった株価指数は、なんとわずか4年後の1990年2月に12495.34ポイントにまで膨れ上がったのだ。そして、同年10月には2560.47にまで急降下。 1990年といえばたしか日本もバブルで大うかれした後に、パチンと泡がはじけた年である。台湾もつきあいよく日本の後を追って大はじけした。

夫の回想によると、舅は以前台湾式フライドチキンの店で成功し、一時はマンション3室を所有していた。往時、株価指数が4000ポイントを超えたばかりの頃に夫は舅に株を買うことを勧めたが、舅は聞き入れなかった。その後6000ポイントを超えた時も、舅に「まだ株は買い時だ」と助言したそうだがこの時も、アマノジャクの舅はとりあわなかった。だがしばらくして今度は舅から「株を買いたい」と言い出した。 何しろ、株を買うとあっという間に何倍にも値上がるのだ。周りには株成金が急増し、マンションをバンバン買っている。舅は地道な商売がつまらなくなり、投資による倍速成長を夢見るようになったらしい。

しかし、この時点で株価指数は10,000ポイントを突破していた。夫はもう株価の伸びは頭打ちだと判断し、舅の株投資を真剣に止めた。しかし、舅のあの性格である。突っ込んだとも、大金を。 そして1990年10月に株価大暴落。普通、痛い目をみたらすっぱり足を洗うのが正しい株ビギナーの姿だと思うが、世の中には苦境に陥ると一発逆転を狙ってかえって墓穴を掘る人間がいる。 あせった舅はその後、知人の持ってきた怪しい投資信託の話にのってだまされ、結局あり金全部をきれいにスった。マンションも3戸のうち2戸を人手に渡し、まさに傷口にたっぷり塩を塗りこんだかっこうだ。

その後、舅のフライドチキンの店もマックやケンタッキーなどのファーストフードに客を奪われ閉店。舅が以後どんな職に就いていたのかは、実は家族もよく知らない。たずねると、とたんに舅の機嫌が悪くなるからだ。ともかく今、明らかなことは舅がほとんど貯金ゼロのままリタイヤ生活に入ったことだ。現在は無職で、子供からちょこちょこお金をもらって毎日を送っている。

…とまぁ、こんな我が家の事情をかいつまんで説明し、謝小姐を慰めたつもりだったが、意外にも彼女はこう言うではないか。「でも、損してもマイナスがないだけマシでしょ。夫の実家は借金があるのよ。」 それなら!と膝を打った私は、今度は友人Xの話をした。

Xのウチは、去年お舅さんがなくなった。お舅さんの残した財産は相当なものだったが、彼女(X)の夫ときょうだい、姑などできちんと分けたまではまぁ円満だった。 だが、その直後に彼女の義弟がこっそり株で大損していたことが発覚!それも借金して投資していたから、えらいことだ。そうこうしているうちに返済期日が近づき、なんと800万元もの大金を返済しなければならなくなった。それにしてもなんでまたそんな大損を?
近年の株価指数動向
1997年08月  10116.84
1999年06月   8608.91
2000年02月  10202.20

このようにバブル崩壊以後も、台湾はすばやく立ち直りなかなか順調な経済成長をキープしていた。NIESなんて呼ばれて、韓国などと並びハイテク産業は好調だったのだ。ところが、ついに来た!どっぷり谷底。去年は本当にひどかった。
2001年10月   3446.26
現在(2002年6月)5000ポイント台を低迷中

結局、この大借金はXの姑が次男可愛さで肩代わりしたのだが、お陰で彼女の舅が残してくれた姑の老後生活資金はすっからかんになった。このツケは将来めぐりめぐって、長男であるXのご主人にのしかかって来ることになる。

この話しでどうだ?!謝小姐も少しは慰められると思いきや彼女の表情は暗いままだ。「800万元?ウチの借金はもうひとつ0が多いのよ…」なんでも、義弟が借金して株に投資した挙句に失敗、現在負債総額は1000万元を超えているという。ここまでくると私もかける言葉に詰まった。しかたがなく、せいぜい明るい声でこう言ってみた。

私「でもそれってご主人の花蓮の実家のことでしょ。ご主人は台北で暮らしているんだし家計は別じゃない?」
言っていてむなしいと自分でも思った。ここは台湾、お家は一枚岩なのだ。子供は実家の家族や親の面倒を見るのが当然と思っている人が大半だ。実家に借金があるとなれば、長男である謝小姐のご主人も知らん振りできるはずがない。ちなみに彼女のご主人はごく普通の銀行員。推測だが、月収はまず5万元(約185,000円)にもならないだろう。謝小姐も今は妊娠中で働いていない。物価高の台北で暮らし、子供を抱えてこの給料で生活するだけでもきついのに、実家に仕送りするのは並大抵のことではない。

いやはやため息の出る話だが、これらのケースに限らず株やその他ファンドなどに投資している話というのは、どこでも非常に頻繁に耳にする。社会人で、株などに一切投資しない貯金一本やりの人のほうが珍しいぐらいだ。公務員や、医者、教師なども挨拶代わりに平気で株投資の話をする。ウチの近所の号子ハオズ(証券会社にある株価表示モニターと椅子が並ぶスペース)では、おじさんおばさんがよくたむろしているし、有線テレビにも株専門チャンネルが何局かあって、取引のある時間帯は株価の一覧を放送している。取り引き終了後は、ブラウン管の中で自称専門家がエンエン株儲け話を講釈。「これを聞けば大もうけ間違いなし!」と、退職金を株に突っ込んだシルバー世代もウットリだ。

なおここで少し解説しておくが、台湾の株式市場は小さい。それゆえにちょっとした外的要素で株価が簡単に上下する。アメリカ市場に連動しているのは仕方がないとしても、その他政治家や有名実業家の発言、噂、天災など、上場企業自体の業績や景気動向といった本質以外のことにあっさり左右される。だから、うまく波をつかまえれば1週間とか短期間に儲かることもある。そのあたりが、人々を惑わせ近視眼にするようだ。

引き続き投資の話である。これはもう、マージャンと並び台湾の国民的レクリエーションになっている感がある。ウチの舅は、もう株に投資するお金はないが、姑は時々気がのると株を買って短期間で売り抜けする。姑のような専業主婦は一般に「菜籃族 ツァイランズー」と呼ばれるが(かごを下げて市場に買い物に行くから)、菜籃族も台湾では重要な投資家である。

それにしてもとにかくインターネット、ファックスサービス、テレビ、新聞、ラジオ、口コミと、情報がありとあらゆる形で流入してくる。皆てんでバラバラ勝手なことを言っているから、株に手を出す人間は「何を聞いてもひるまない」強固な信念が必要になる。

さてではウチはどうかって?夫にしてみれば銀行預金は死んだお金。彼も当然株を買っている。この前は私に内緒で200万元の損を出し、それをまた株で取り戻しプラスマイナスゼロに戻したところで、やっと打ち明けた。夫はお金に関しては私の意見などまったく聞かない人なので、私は彼がいったいいくら投資しているのかわからず日々非常に不安である。

だがそんな私の心配をよそに、夫は投資というものを日課のラジオ体操ぐらいに考えているらしい。彼の投資人生は実に波乱に富んでいて、私も全貌は掌握していないが知っているだけでも相当今まで色々なことをして来た。25歳の時に初めて友人とお金を出し合い健康食品の店を開いたが1年であえなく倒産。この時出来た借金返済の為、その後3年間高雄のカラオケボックスで働いた。その後、喫茶店、上海の茶芸館、インターネットカフェにも出資し(いずれも合同出資)すべて閉店という輝かしい戦歴を誇っている。このうち、喫茶店と茶芸館のケースはそれぞれ投資した10万元をドブに捨てた格好だが、インターネットカフェは1万元の儲けが出た。

しかしそれはこの店が儲かっていたからではなく、こんな事情があったからだ。ネットカフェには複数の出資者がいて、その内の一人が急に物入りの事情になった。夫は本来この店と無関係だったのだが、金の匂いをかぎつけ、ただちにこの出資者の権利を買い叩いた。店の経営が思わしくないことを計算に入れてもなお「買い」と判断。相手の足元を見て、もともとは当人が10万元投資して得た利益回収権利をたった2万元で手に入れたのだ。その後このカフェはあっさりつぶれたが、閉店後にパソコンその他を売ったお金や戻ってきた敷金などを再配分した結果、出資者の中で夫だけが黒字になったというわけである。

この他、彼の得意ワザに(私の大嫌いな)ネットワーク商法がある。つい先日も「有機野菜の通販」に手を出した。よくある「友人を紹介するといくらのキックバック」というもので、彼はさっそく入会。入会金は一口5000元だったが、入会しても野菜が送られて来たことなど一度もなかった。私が非難がましい口調で夫にそのことを言うと「いーの、いーの、もう払った入会金以上のキックバックがあったから、商品はどうでも」と言う。

案の定、この会社も速攻で倒産。会社創立一周年も待たずに…ゴシュウショウサマ。しかし夫はそんなことを蚊に刺されたほどにも感じていないらしい。まるで子供が歌う「ローンドン橋落ちたー落ちたー落ちたー」と同じで、自分が渡っている時に橋が落ちなきゃOK!ってな調子だ。

こうやって書くと夫はまるで「守銭奴」のようだが、彼は金儲けも好きな反面、慈善団体への寄付も気前よくする人である。夫に限らず台湾人は投資で儲けたら、周りの人にご馳走したりなんらかの形で還元する場合が多い。だから、投資はお金をただ儲けて貯めるのがゴールではなく、楽しく使って皆がよい気分になるまでがワンサイクルになっている。

ところで、果たして台湾は前編に登場した人たちやウチの夫のように果敢(ムチャ)な投資をしている人ばかりなのか?それとも私の周りだけなのか?そこのところが、今ひとつはっきりしない。それはメンツを重んじる台湾人がそう簡単に投資で大損した詳細を人に漏らしたりしないからだ。また逆に負け惜しみでわざと損失を誇大に吹聴する人もいるだろう。今回紹介した話は、親しい友人だからこそ聞けた話である。

それにしても、街でよく「法拍屋 住所:和平東路1段XX号 40坪」なんて張り紙を見かけるのはなぜだろう?(これは、不良債権処理の為に差し押さえられて競売にかけられる住宅の告知)「法拍屋」情報専門のサイトもあるくらいだ。もしや、ウチの舅のような人がたくさん??私が肌で感じるところでは、やっぱり相当数いる。

しかしもちろん、もっと手堅いお金の増やし方をしている人もいる。民間互助システム「跟会クンホェイ」はその代表だ。これは日本でも「無尽」あるいは「頼母子講」と呼ばれ、地方では今も行われている。このシステムを説明するとすごく長くなるので詳しいことは省略するが、はやい話、親戚友人が幾人か集まり一口いくらと決めて毎月お金を出し合い、集まったお金を参加者が毎月順番に一人ずつ受け取る。早い順番に受け取った人は利子を払い、遅い順番に受け取った人はその利子がもらえるしくみで、全員がお金を受け取ったところで終了する。

よく知らない人は「そんなの銀行やサラ金で借りればいいじゃないか」と思うかも知れないが、「跟会クンホェイ」だと無担保でサラ金より低い利子で借りられるし、貯蓄目的の人にとっても銀行よりは高い利子がもらえるので、なかなか便利なシステムである。この「跟会クンホェイ」、台湾では非常にポピュラーで一人でいくつも「跟会クンホェ
イ」している人もいる。だがこれとてもリスクはある。それは参加者全員がお金を受け取り終わる前に、会がつぶれてしまうことだ。これを「倒会ダオホェイ」という。例えば、早々にお金を受け取った人がそのまま失踪し、以後毎月の払いをしなくなったり、あるいは発起人(集金人を兼ねる)がお金を持ち逃げしたりする場合だ。

「跟会クンホェイ」にも規模の大小があって、大きいものは参加者が100人を超えることもあり、そうなると終了まで100人が100ヶ月もお金を払い込むことになる。自分がまだお金を受け取っていなくて、すでに70ヶ月も払い込んだ後に倒会になったりすると目もあてられない。(もし一口1万元だとすると約70万元の損害) たまにだが、本当にテレビでこんな大規模な「倒会」のニュースを見ることがある。被害者は怒り狂いながら、発起人の自宅に生卵をバカスカ投げつけるのがお約束(?)だ。

そうそう、私の友人陳小姐も最近「倒会」に遭った。彼女が同僚の紹介で参加した会は規模こそそんなに大きくはないが、陳小姐が計12万元払い込み、しかもまだ自分はお金を受け取ってない段階で発起人のネコババが発覚。発起人は「今月はAさんがお金を受け取りました。」と他の参加者に嘘をつき、何ヶ月分かの会のお金を自分の懐に入れていたという。それでどうなったか?実はこの会はそのまま存続している。発起人もどんな顔してやっているのか知らないが、そのまま参加しているという。結局発起人のネコババ分は、陳小姐をはじめ幾人かが、とりあえず被ることになった。

私がなぜそれで黙っているのか陳小姐にたずねると「だって、発起人も同僚の親戚だし、あの人も納骨堂の投資で大損していて子供も3人いるし、返せと言っても本当に今お金がないんだもの。発起人にもう一回名誉挽回のチャンスをあげることにしたの。ネコババ分は今後少しずつでも返済するってことで」という。もっとも、完全に倒会すると本当に投資回収が困難になるが、とりあえず存続させればいくらかでも回収できるという実利面もある。だがそれにしても、「友だちはたとえ過ちを犯しても足げに出来ない」台湾人の温情主義を物語る面白い例だろう。

また夫の話に戻るが、彼は半年前にも大陸の不動産投資話を聞きつけて来たことがあった。福建省アモイの物件で、ここの豪邸を200万元(台湾ドル)で買って外国人駐在員に貸すと6年で投資回収ができ、あとは儲けっぱなしといううまい話だった。私はもちろんこの話に反対したが、彼はけっこう興味があったようだ。しかしこれも様子見で半年過ぎた今は、「そんな甘い話ではない」という結論に達した。

どうも台湾人の投資にも株などの定番の他、ブームというものがあるらしい。数年前は「霊園」や「納骨堂」に投資するのが話題だったし、去年までは大陸の不動産とB
股(股は中国語で株の意味)が流行った。(中国大陸の株式市場はA股とB股があり、A股は中国人のみ投資でき、B股は外国人のみ投資できる)結論としては、ブームの先駆けに速攻で投資すると儲かるが、後発では損をする。情報が命だ。

それにしても何ゆえに台湾人はこんなに投資が好きなのか?それは、やはりコツコツ何十年働いたところで、きちんとした年金制度があるわけじゃなし、老後の生活に常に不安を抱いているからだろう。それに実際、不景気でもうまーく投資して30代ですでにセミリタイアしている人もわずかだがいる。

動乱の歴史も「先の1元万より今日の千元」を教訓としている。戦乱で中国全土を追われ、財産の多くを放棄して国民党と一緒に台湾に逃げ落ちた外省人。あるいは、戦時中日本軍からもらってコツコツ貯めていた軍票が、終戦で一夜のうちに紙切れになった経験を持つ本省人。そんな人たちが短期間にまとまったお金をつくっておきたいと考えるのも当然のことだ。老後を子供に頼るのは最後の手段であることは皆承知している。

だがこんなリスク含みの投資事情も悪いことばかりではないようだ。ウチの夫のみならず台湾人はチャレンジ精神旺盛。ちょっとぐらいの失敗ではへこたれない懲りない人たちなのである。それゆえに台湾市場には常に個人投資家からの資金が流入し、ポシャってもまた立ち上がるバイタリティーを生み出しているわけだ。(注:日本統治時代の台湾出身軍人軍属の未払い給料や郵便貯金等は、やっと平成7年10月になって交流協会が窓口となり換金受付がなされた。《平成12年3月末締め切り》換金レートは当時の額面の120倍)


1. 21人家族長男の嫁

仮にあなたが独身の女性だとする。ある日彼からプロポーズされた。さあ、あなたならどうする?

彼が外国人(台湾人)でも結婚するという方は右へススム。→その上長男でもOKという方は更に右にススム→その上、結婚後は台北市内ではなく、付近に店屋の一軒もない山の中に住まなければならなくてもOKという方のみ→その上、彼の家業が農水産業であってもOKという方。(イチオウ家業は手伝わなくてもいいという条件)→

ここまで全部OKで来た方は、素晴らしい心意気!では、では。その上結婚後は彼の家族と同居しなければならないとしたら?それでもOKの方は右にどうぞ。→いよいよ最後の質問。その上、同居する家族が姑以下21人いても、あなたは彼と結婚する?

はっきり言ってこれほどの条件だと、結婚相手としては台湾人女性からも敬遠される。だがこれらの問いに全部YES!と答えて花嫁御寮になった大和撫子を私は知っている。名前をE子といい、現在は、桃園縣の山奥に住んでいる。彼女の家の前には小川があって小さな橋がかかっているが、去年の台風時には土石流で流され、自宅はしばらく陸の孤島になった。そんな所である。

ある日、はるばる車を飛ばして彼女の家に遊びに行った私は見た!山の中に建つ、お城かと見まごうばかりに大きな建物。それがE子の嫁いだ黄一族の館である。なにせ、ひとつ屋根の下におばあちゃんやらおじさんやら従兄弟やら、一族郎党が住んでいるのだから、とにかく社宅かと思うほど巨大だ。

ここまで読んだ人の中には、「何も無理して同居しなくても…」と思う人もいるかも知れないが、台湾の田舎で一族同居は普通なのだ。ましてや地主の長男ともなれば、親と別居するなど考えられない。

なお、こういった農村的家族観は台湾の場合、都市部であってもそう変わらない。台湾人で就職、就学、結婚以外の理由(例えば単なる独立)で、親と別居する人はまずいない。「なんで、実家に住めるのに無駄金使って独立するの?」という感じだ。(但し、この国でも新妻は夫の家族との同居を嫌がる。よって、結婚独立別居のケースがあれば大抵は新妻の意思による)

従って都市部でも、家族親戚の密着度は日本の田舎並に高い。夫婦で毎週どちらかの実家に帰っている例は珍しくない。もし嫁が妊娠すれば、定期検診に姑がついてくる(E子ところも、私のところもそうだった)。やれ子供が大学を受験すると言えば、親は当日試験場までついてくる。

とにかく、日本人からすると親子親戚の関係がネットリベタベタなのだ。つい先日も、ニュースで80歳を越す老婆がホームレスになって地下道で寝起きしている様子を報道していたが、テロップには「子供の親不孝」と出ていた。生活保護や年金制度の不整備よりも、「親不孝」の方が責められる?!

さて話しを黄さん一家に戻す。この家の中にいったいいくつユニットバスがあるのか、よくわからない。おじさん一家とか、E子夫婦とかいくつかのグループに別れて、それぞれ専用ユニットバスを使用しているそうだ。

だが、台所はひとつである。20畳ほどもあるそれは、もはや厨房と呼ぶ方がふさわしい。冷蔵庫はもちろん銀色に光る業務用だ。自宅付近には歩いて行ける食堂などないので、当然三食自炊である。20人前の食事を作るとなると、いったい何合の米を炊くのか、私などには見当もつかない。

やがて陽も傾き、私たちは一階にある食堂に案内された。お客ということで真っ先に食堂に通されたが、他にはまだ誰も来ていなかった。どうするのかと見ていると、E子のお姑さんがやおら電話機に駆け寄り館内放送。内線を通じて全館に「ご飯できたよー」の声が響いた。

すると、おじさんやE子のご主人ら男衆がワラワラ現れて、10人掛けの食卓はあっという間に満員御礼。他の人はどうするのかと尋ねると、「あとで」と言う。黄家の食事は二部構成 客総入れ替えの新宿コマ劇場のようだ。

ところで、タイトルに21人家族と書いたが、この数字の前には「約」をつけたほうが実情に合う。家族の中でも若いイトコなどは、海外留学に行っていたり、恋人の所に入り浸って帰って来なかったりと、人数は流動的である。

そうそう流動人数と言えば、このところE子の義弟の部屋に上がり込んで同棲状態になっている彼女はこの人数に入っているのか不明である。何しろ、家も大きく人数も多いので、誰がいつ出ていって帰ってきたのかよくわからない。 ご飯だって、ある時に食べなきゃありつけないし、お菓子も見かけたらその場でポケットにネジ込むのが原則だ。

因みに、この黄さん一家は客家人だ。客家(ハッカ)とは中国のユダヤ人とも言うべき流浪の民。もとは大陸の湖南省あたりにいたらしいが、水害に追われたりして民族散り散りになり、どこへ言っても「よそ者のお客人」として扱われたのが客家の呼び名の由来という。ユダヤ人のような民族独自の信仰はないが、流転しつつも客家語という母語は大切に今日まで伝えて来た。

だから、家の中は客家語が充満、北京語と日本語しか出来ないE子の頭上をノイズとして流れてゆく。E子にはもうすぐ3歳になる息子がいるが、86歳の(息子からすると)ひいおばあちゃんは客家語しか出来ないので、この頃は息子が通訳をしてくれる。

なお、客家人は質素な生活振りで知られている。黄家は地主なので野菜はほとんど、おばあちゃんとお姑さんが自分んちの畑でつくる。鶏も飼っているので、採って来た卵は割ると黄身がモリモリしている。この家では、鶏肉は買うものではなくシメるものである。さすがに都会育ちのE子に「シメろ」とは誰も言わないが、彼女も嫁いで4年。羽をむしるぐらいは出来るようになったのだからえらいものだ。

さように黄家の家風は質素だが、実はここんちは蘭の栽培と錦鯉の養殖をしていて、とても裕福である。栽培している蘭は、花ではなく葉っぱを鑑賞するタイプで、バブリーな時勢の頃は、山から掘ってきた株をひとつ200万元で売ったこともあった。もっともこの商売も今は不景気でさっぱりだが、本業である錦鯉の商いは、海外の客も多く順調だ。

「質素」と「裕福」が融合すると、実に微妙なセンスが生まれる。あれはE子がまだ新婚の頃だった。「ちょっと見てー!」と姑がプレゼントしてくれたというブラウスを見せてくれたことがあった。ペンキをぶちまけたような目のさめるオレンジ色で、合成繊維のテロテロで、オレンジのフリルがついていて、ボタンがピカピカ光っていて、体にフィットしない寸胴シルエット…。新手のいやがらせとか?…ではない。

姑の質素な感性によりそのブラウスは、デパートではなく市場で購入したモノだ。但し、お金はあるからヒドイ安物などは買わない。そこで、市場で売っている中では上等なモノ(1着1000元くらい)を選ぶ。これが、黄家の絶妙なチョイスである。

E子のご主人の普段着は仕事がら短パンにTシャツだが、運転する車はベンツ。それから、ご主人が新居用に買ってきたダイニングテーブルも逸品。(E子夫婦は敷地内に別棟を建てて独立する計画)大木をスパッっと輪切りにしてその年輪面をテーブルに仕立てたヘヴィ級。日本では信州の蕎麦屋にでもありそうな民芸調で、とっても素朴なテイストなのにものすごく高価なシロモノだ。

もちろん、現代的日本人である彼女の趣味ではない。新居の為に、日本のインテリア雑誌を眺めていた彼女の眉間に皺が刻まれたのは、こういう事情による。

ところで世の中には、「今晩のおかず何にしよう?面倒くさいわね」という奥さんが沢山いるが(私のこと)、そんなことを言っているようでは甘い。E子には、晩ごはんどころか一日三食何を食べるか選択の余地さえない。お姑さん達が台湾料理+客家料理を作るのを手伝って、食べるだけだ。

また、よく「夫の家族とは同居したくない」という嫁がいるが(それは私)、そんなこと言っているようではイカン。E子は、敷地内に新築の家が建った後も、お姑さんと同居することを承諾している。

「別に、嫌いじゃないし」と、E子は実に優しい。彼女は嫁いで間もない頃、お姑さんに勝手にクローゼットを開けられ洋服チェックされた時も、何も言わずに耐えた。

そんな嫁の鏡E子でも、最近ちょっと耐え難いことがある。それは、ただでさえ今、二人目妊娠中の身で幼い長男の世話をしていてしんどいのに、更に姪っ子の世話までしなくてはいけないからだ。1歳半の姪っ子(小姑の娘)は本来お姑さんのところに預けられているのだが、お姑さんも手が掛かって面倒らしく、すぐE子に押し付けて自分は畑に逃げてしまうのだそうだ。

「なんで私が姪っ子のお尻まで拭かなきゃなんないの?疲れるうー!」E子の眉間の皺は最近3本に増え、もはやSK−ローションを叩き込んでも消えないほどになった。 「結婚生活は格闘技である」

個性と個性のぶつかり合い。強者が弱者を凌駕する。E子の毎日は私達に結婚の本質を教えてくれる。 私だって、「格闘技は嫌だから、腕相撲程度にしておきたい」と思う。だが、結婚した時点で、相手の家族も自分の家族とした以上、いつなん時全面格闘に突入しないとも限らない。事態は自分ひとりではコントロール出来ないのだ。

おっと、そこでたじろいでいる独身のあなた!思案ばかりしていては、結婚は出来ないのだ。目を血走らせてリングに上がってこそ見える景色もあるというもの。そう、来たるべき日の為に今から走り込みでもして体力強化に努めよう。


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